第七日 深夜課

 先日、記事の中で『ソフィーの世界』を提案したけれど、個人的に、まおゆうの読者に強く手に取ることをお勧めしたい本のもう一冊、『薔薇の名前』を紹介しておきたい。イタリアの記号論者、ウンベルト・エーコ博士の記した、前世紀を代表することになろう傑作の一冊である。

 13世紀イタリア北部山岳地帯、アルプスを背後に控えた山深い修道院で起こった連続殺人事件。折しも異端裁判の舞台となろうとしていた修道院側からの依頼により、見習い修道士である主人公は、師ウィリアム修道士に従って、その真相に迫っていくのだが・・・。

 中々に難解な本ではある。特に序盤のイミフさは一般の読者をうんざりさせるには十分な力を持つのだけれど、騙されたと思って前巻を半分まで読み進めて、むしろ読み飛ばしてみてほしい。『ひぐらし』的な加速度を持って、物語はすぐ、その真の姿を見せてくれる。

 以下は、作中のさる修道士の語る台詞の抜粋である。彼の語る言葉はたしかに狂信ではあるけれど、彼の言葉、「逆転」を通して見るならば、実は真実を、その言葉が不遜であるならば歴史の事実を、鋭く指摘しているようには見えないか。

 これまで数回の僕の記事にお付き合いいただいた方には、以下の複雑な(時折翻訳に?マークをつけたい箇所もある)文章の意味が、きっとおわかりいただけることと思う。とにかく、もの凄い本である。

 

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

 
薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉

 なぜなら、あの哲学者が書いたものだからだ。あの人物の著した書物は、キリスト教が何世紀にもわたって蓄積した知恵の一部を破壊してきた。教父たちは神の言葉の威力をめぐって心得るべき事柄を説いてきたが、ボエーティウスがあの哲学者の著作に注釈を施しただけで、神の言葉の不可思議な神性を、人間的なパロディーの範疇と三段論法の域内へ引き降ろしてしまった。『創世記』は宇宙の生成について知るべきことを語ってきたのに、あの哲学者の『自然学』が再発見されただけで、宇宙が鈍重で粘液質な物質の観点から考察し返さなければならなくなり、アラビア人アヴェロエスが世界の永遠性をめぐって万人をほとんど説得するほどまでになった。わたしたちが神性の名前についてすべてを知っていたのに、アッボーネが埋葬に力を貸したドミニコ会士[アクィーノのトマス]は——あの哲学者に誘惑されて——自然の論理の傲慢な小径を辿りながら、それらの名前をふたたび掲げていった。こうして、かつては天上に模範的第一原因の光り輝く滝を認めることができた者の目に、アレイオパゴスの裁定者をとおして現れた宇宙が、いまや抽象的機能を名づけようとして天上へ駆け登る者たちによって、地上の事物になってしまった。以前には空を見あげて泥にまみれた物質に眉をしかめたというのに、いまでは地上を見つめては地上の証明に基づいて天上を信じるようになった。いまや聖者や教皇たちでさえ誓願の根拠とするようになったあの哲学者の言葉の一つ一つが、この世界のイメージを逆転させてしまっている。しかし神のイメージを逆転するまでには至らなかった。もしもその書物が広まって・・・・・・開かれた解釈の資料となってしまえば、わたしたちは最後の一線を踏み越えてしまうであろう。

訳:
 ヤバイ。あの科学者の書いた本だけはヤバイ。あいつの論のせいで最近の若いのはみんな神を論理的に説明しようとしよる。聖書の内容をそのまま信じず、いちいち比喩だとしてなんじゃかんじゃ理屈をつけよる。自然を観察して神に近づこうなどとアホなことを考えよる。ぜんぶあいつのせいなんじゃ。

 けれどもその書物は悪魔の恐怖から解き放たれることが知恵であることまで教えかねないだろう。農夫の喉に酒が注ぎこまれて、笑いだすとき、彼が自分を主人のように感じだすのは、主従関係を逆転させるからだ。ましてや学者たちには先鋭な考えを授けかねないだろう。そして蒙を啓かれた瞬間から、逆転を正当化する業を、彼らは身につけてしまいかねない。そのときには、農民の無反省な行為の中では、幸いにもまだ腹のうちに留まっているものが、頭脳のうちへ転換されかねない。笑いが人間に固有の性質であるとすれば、それは罪深いわたしたちの限界の証だ。それにしても、その書物のなかから、おまえみたいに腐敗した精神の持ち主たちは、笑いが人間の目的であるという極端な三段論法を導き出しかねないであろう!

訳:
 この本を読んだら、悪魔とかそういうのが馬鹿馬鹿しいものだって分かっちゃうかもしれないだろ。そしたら神さまに背いたら怖いよーって教えてるオレたちの立場どうなんのよ。最悪、人間は神さまのために生きてるんじゃなくて、自分自身が幸せになるために生きてるだなんて、罰当たりな考えがまかり通るかもしんないぞ。

 したがってその書物から、恐怖を逃れることによって死の破壊をもたらす、新たな破壊的願望が、生まれかねない。わたしたちのように罪深い存在は、神の賜物のなかでも、おそらく最も深い慈愛と思慮とにみちた、あの恐怖がなければ、いったい何になってしまうであろうか? 何百年にもわたって神学者や教父たちは、高きにあるものへ思いをめぐらすことにより、低きにあるものの悲惨や誘惑を贖うために、聖なる知識の香気を発散させてきた。ところがその書物は、喜劇や風刺劇や無言劇が人間の短所や悪癖や弱点を表すことによって、情念の浄化をもたらす特効薬であると述べ、虚偽の叡智の持ち主たちを唆し、低いものを受け容れることによって高いものへの埋め合わせを(悪魔的な逆転によって)果たそうと企図しているのだ。その書物からは、理想郷と変わらぬ豊かさを(おまえのベーコンが自然の魔術について示唆したごとく)人間がこの地上に願ってもよいとする思想が、導き出されかねない。しかしそれは人間に持てるはずがないものであり、持てないものなのだ。

訳:
 そんで、それぞれ自分が幸せになるため好きなことしていいなんてことになりゃ、世界がどうなるかなんて目に見えるだろ。神さまのバチ怖いよって思わせておくのが一番平和なんだってば。人間なんて限界があるんだから、自力で幸せな世界を作れるなんて思うのは思い上がりなんだよ。

 しかしいつの日か、常軌を逸した想像力の、他愛もない戯れが、あの哲学者の言葉によって正当化されるようなときが来れば、おお、そのときには、それまで周縁にあった他愛もないものまでが、まさに中心に躍り出て、中心にあったものは跡形もなく失われてしまうであろう。神の民は、未知の大地の奥底から躍り出てきた悪魔の群れへと姿を変え、そのときには既知の大地の周辺がキリスト教世界の中心になり、アリマスピたちがペテロの玉座に就き、ブレンミたちが僧院に陣取って、巨きな頭と太った腹の小人たちが文書館の警備に当たるであろう! 使用人たちが掟を作る側に立ち、わたしたちは(もちろんおまえもいっしょだぞ、そのときには)一切の掟を失って、服従する側に回るであろう。

訳:
 でももし、そんな考えが当たり前になったとしたら、えっらいことになるぞ。馬鹿どもが政治をして、知識人は役立たず扱いされるんだからな。

 それにしても、いつの日か、もしも誰かがあの哲学者の言葉を振りかざして、いかにも勿体ぶった口のきき方をしながら、笑いという手段を鋭い刃物にまで研ぎ澄ましたならば、もしも説得するための修辞法を嘲笑するための修辞法に取って代わらせたならば、もしもまた贖罪の図像を用いて忍耐づよく救済の方向へ進む努力を忘れたり、尊ぶべき聖者の図像をことごとく逆転させて解体させる性急な方向へと転ずるようなことがあれば——おお、その日には、おまえばかりではなく、ウィリアムよ、おまえの拠り所とする知恵も、一切が覆されてしまうであろう!

訳:
 おまえの愛する哲学も、きっと無用の学問扱いされて、みんなに笑われるんだからね!

 だが、もしもいつの日か——もはや庶民に例外として認められたものではなく、『聖書』に記された揺るぎない証言にまで及んだがために、学者にとっては苦行として——嘲笑という手段が高貴なもの、自由なもの、もはや機械的ではないもの、と見られるときが来たりすれば、もしもまたいつの日か、キリストの受肉などお笑い種だ、と誰かに言い切れる時が(そして平然とそれに耳が傾けられるときが)来たりすれば・・・・・・その日には、そのような罵声を押し留めるための武器を、わたしたちは持たないであろう。なぜならそのような罵声は、物質的な肉体の暗い力を、放屁とあくびのうちに認められたあの力を、呼び集めて、本来は精神にだけ属していた権利を奪い取り、放屁とあくびがその悪臭を思いのままに吹き放つ日が来てしまうであろうから!

訳:
 つまり、キリスト教は嘘っぱちだなんてばれちゃったら、人間みんな好き放題してえっらいことになるんだからマジヤバイ。この本ヤバイ。


 せっかくローマ教会ってモデルを使うのなら、狂信者とはかくあって貰いたいと個人的には思うのです。力自慢の蛮族ならともかく、なにしろ政治運営まで行う(つまり官僚組織を従えた)宗教団体ですから、間違うにしても理路整然と間違ってくれないと、インテリ揃いである側近がついていけません。でも、こんな論をまき散らすまおゆうだったら、きっと面倒くさくて人気出なかったよね。

 ともあれ、この「本」の正体が知りたい人は、『薔薇の名前』読んでくださいねー。