かんたんキリスト教のしくみ

 キリスト教が旧約・新約の二冊の聖書を元にした宗教なのは有名です。例によって主観でごく乱暴にまとめると、前者は「猛烈に腹をたてた神さまが人間をバコバコ殴る」お話で、後者は「人間がそれなりに反省したっぽいので許してやっかー」というお話。

 旧約の時代には、神さまはわりとせっせとお告げを人間に伝えさせて、人間の性根をまっとうにしようと頑張っていたのですが、いくらお灸をすえても人間のへそ曲がりは直らないので、むかついてノア以外皆殺しにしちゃいます。例の洪水で。

 いちおう「お前の子孫はもう皆殺しになんかしないよ!」って言って、綺麗な虹を見せるサービスなんかもしてくれたんですが、そのうちやっぱり人間が言うことを聞かなくなるのでユダヤ人たちをまとめて奴隷にしてみたりする。約束は守るあたりさすが神さま。

 一方、新約の時代。新約というからには新しい約束です。預言者に伝えさせているんじゃラチがあかねえと感じた神さまは、いっそオレが直接説教ぶっ垂れたらいいんじゃねと思いつきました。人間はどうあるべきか、正しい人間ってものをバッチリ説明してやろうと。

 ところで、キリスト教の神さまは何から何まで完全な存在です。そんな完全な神さまが「正しい人とはどのようなものか」について説明したんですから、なんと、その説明自体がもう完全に人そのものとして実在してしまう(名文家が名文の書き方を説明したら、その文章自体が名文だった、の超パワーアップ版)。神さまヤバイ。ともあれこうして、正しい人が地上に爆誕しました。イエスキリストです。

 イエスは色々あって結局ハリツケにされて死にます。しかも、死んだのになぜか復活した。しかも天国へ行っちゃった! ここで理屈は大いに空を駆けます。まず、イエスは神さま自らが人について説明した結果の存在なので、イエスとは人類そのものです。その人類そのものが天国へ行ったんだから、神さまが人類の罪を許してくれたことになる(これが新しい約束)。

 楽園に住んでたアダムとイブが、神さまの言うことを聞かなかったせいで追放された以来の、人類すべての罪が許される。しかも、人そのものが許されたんですから、これから人がしでかす罪も未来永劫許されたことになります。大変なことです。そんなことあっていいのか。さすがにチートじゃね?

 我田引水が好きなキリスト教指導者たちもさすがに悩みました(400年くらい)が、結局、こう信じることにしました。イエスは人だったが、同時に神さまだった。なぜって、そうでもなきゃ死んだのに復活とかできるわけないもん。

 同時に、こうも考えました。さすがに何しても許されてるからオッケーってのは罰当たりな気がする。社会の治安維持の上でも好ましくない。でも、死ぬよりつらい罰はないし、その罰はイエスが既に人類分まとめて引き受けてくれちゃった・・・・・・そうだ、罪も罰も許されたけれど、あがないはしなきゃならないよね!

 「刑事罰は許されたけど民事的な賠償が残ってる」みたいな。そんな交通事故の後始末みたいなので本当にいいのか・・・。ともあれ、今でもカトリック教徒は何かしでかす度に、何もしでかさなくても、定期的に司祭の元を訪れ、罪の告白をし、罪に応じたあがないを与えられます。

 いわゆる免罪符という言葉、これが間違った訳なのもここから分かります。だって罪は既に許されてるんですから、今さら免じるもなにもない。正しくは贖宥状、つまり贖いを宥(ゆるす)。交通違反者講習でゴミ拾いさせられるのが面倒な時、免除のために協賛金を払うみたいな感じ。

 この辺の解釈はいくらなんでも牽強付会すぎるんじゃね? と考えた人たちが後に離脱し、プロテスタントに代表されるような様々な宗派を作っていきますが、各派についてあんましよく知らないのでとりあえずノータッチで。


追記:
 以下の補完を戴きました。ありがとうございます。

→ ここから「神って超すげーから,神の代理人たる教皇もすごくね」「ていうか神の代理人なんだから,地上全土の支配者でもあるよね」と行き,中世欧州を支配したのがカトリック教会。
→ しかしいろんな人から「それは拡大解釈しすぎ。聖書はそこまで言ってないよ」とつっこまれ,にっちもさっちも行かなくなって教皇権威が失墜。
→ 逆に最初から「神の代理人(笑)」「人間は等しく人間だろ,ばかじゃねーの」と進み,比較的世俗への介入が少なかったのが正教。
nix in desertis
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51857768.html