おたく神学 三位一体と美少女ゲーム

 三位一体説について中世の神学者ヨハネス・ドゥンスの解釈に従い、キリスト教哲学と東洋哲学は「永遠の中の一瞬」という点で意外な一致を見るのだと著者は主張する。
 三位一体説とは「神である父とキリスト、そして彼ら二人に共通する”想い”である聖霊三者は、別の人格(ペルソナ)でありながら、神という同一の一者である」というキリスト教神学の根本概念であり、381年ニケア・コンスタンティノープル会議において成立した。
 父である神は人が楽園で犯した罪(原罪)により人との対話を放棄したが、分身であるキリストを人間として人の中に立たせ、その処刑を通して人との一対一の関係を修復(原罪を払拭)する。この点でキリストはキリスト教において救世主なのであり、新約聖書は「いかに人は生まれ持った原罪の罪を許されたか」について語る物語である。
 キリスト教の抱えるこうした「人知を越えた」教義(それほど多くない)は、玄義、奥義、あるいはMISTERYと呼ばれ、本質的に人間理性の限界を超えた存在であるゆえに、神が存在することと同様のレベルでキリスト教徒が信ずるべき概念であるとされるものの、教会博士トマス・アクィナスの「思考を通した信仰」という言葉が端的に示すように、こうした概念への理論的挑戦(時に批判的な)がキリスト教哲学、すなわち中世哲学の主体であり、現代哲学の母体とさえなった。*1
 さてヨハネス・ドゥンスは聖三位一体を構成する父・子・聖霊について「記憶・理解・愛」と解釈する。つまり、断絶されて手の届かない過去、それに光を当てる知識と思考、そしてそれらから生まれる言いようのない感慨として三位一体を説明するのである。また同様に、永遠に生きる神と人は別の時間に立つわけではなく、方や永遠の中の一瞬、方や有限の中の一瞬において常に向き合うものだとして人間の自由意志を掲げ、神の円環的時間観が必然的に持つ宿命論を排斥した。
 この解釈は明快なだけでなく、特に現代日本のおたく界隈に生きる僕らにとっては理解しやすいのではないだろうか。永遠と今を扱うテーマは数多の美少女メディアの持つ主題であったし、それらが恋愛要素を基軸とする作品群、しばしば18禁の作品に見られたことは極めて暗示的である。つまり、「なぜエロゲーにはエロが必要なのか」の一つの答えとして、エロゲーは原罪としての生殖(恋愛)の罪、それが生む悲劇と救済のシークエンスとして、現代に再現された三位一体の物語群だったと解釈してみるのも面白い。
 何にせよ、秘められ忘れ去られた過去をつまびらかにし、その悲劇の抱擁を通して真実に辿り着くことは、一種独特の感慨を生む。良きサスペンスや推理小説の読後の深い余韻に浸ったことのある人は多いだろう。この感慨こそ真実の喜びの一端であり、キリスト教神学2000年の歴史を支えた喜びであるといっても過言ではあるまい。事実、それら作品のことを、僕らは今でもミステリーと呼ぶ。


参照:
http://d.hatena.ne.jp/hajic/searchdiary?word=%2a%5b%a4%aa%a4%bf%bf%c0%5d
(おたく神学一覧)
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050708/p1
(聖三位一体)


参考作品:
君が望む永遠 Latest Edition 初回版(PC R18)
Kanon ~Standard Edition~(PC R18)
工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版(PC)
スキップ (新潮文庫)(文庫)

*1:にもかかわらず「哲学は神学の婢女」という悪意ある言葉が今も生きていることは、いかに近代が中世を効果的かつ念入りに葬ったかの良い見本であろう