過去は間違っていて今が正しいと誰が決めた

 まおゆうは少なくとも、心をかき立てるという面で良い創作だった。あれだけの吸引力を持つ作品というものも、そうざらにはあり得ない。もちろん、各論において乱暴さを感じる点もあるけれど、良い物は良いものだ。

 僕がまおゆうに関して二つの、直接言及したのは一つだけだけれど、記事を書いたのは、それでもやはり、どこかしらから漂う偏見あるいは固定観念の匂いに反発したかったからだった。一言でいうなら人間賛歌だろう。人間賛歌。なんという嫌な言葉。

 読者は自分で考える手法を持つ必要がある。さもなければ、面白かった物語が語る思想を、そのまま正しい(あるいは自分の)思想として受け入れてしまう可能性が高いからだ。これが導く未来はただ一つ、扇動政治の成立に他ならない。

 自由って何だ。丘の向こうって何だ。美しい響きに思考を停止してはいないか。

 美しい言葉が美しいのは、それだけの理由がある。だいたいは血みどろで美しくない過去があり、現実があり、けれどそんな陰鬱な闇を通して祈りが込められ続けたからこそ、美しい言葉は美しい。

 血みどろでも、ほとんど全て嘘だとしても、なお信じたいからこそ生き延びてきた言葉だ。感動を呼ぶキーワードは、どれも取り扱い危険な言葉と言っていい。信仰に際しては由緒書きを良く読み、内容をしっかり把握してほしい。

 二つめの記事で、神について触れた。今の時代、「神であり人である男が殺されて生き返った」などと真っ正面から信じる人はいない。ただし、「彼が生き返っていて欲しい」と願う人はまだ、世界に数十億人いる。そういう話だ。

 その言葉の正体について考え抜いた末が、その言葉の怪しさを証明するだけだとしても、何も考えずに受けとるよりもずっといい。機械の仕組みを知らなくても機能は使える時代ではあるけれど、その使い道を判断するのは人間の意志だ。

 自分で考える手法。これを学ぶための学問が哲学と呼ばれる。「哲学そのものを学ぶことはできないけれど、哲学的に考えることは学べる」。『ソフィーの世界』の主人公が語る言葉は正しいと思う。


ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙


 この名著が中古なら1円で買える。素晴らしい国だ。実に。