疑う理由・信じる理由

id:Erlkonigさんの言葉を借りるなら、『シンフォニック=レイン』という物語は確かに「人は如何に自分の見たいものしか見ないか」という物語でもありました。誰に何と言われようとも、自分がその事実に直面するまでは絶対にそのことに気付かない、あるいは信じようとしないという情景を、読者は本作全編を通して何度も何度も目にすることになります。


「(絶対に)そうである」と無言の内に信じている現象が、次々に否定されていく次第は、ミステリ的な快感を通り越して一種絶望的です。何が本当に恐ろしいかというなら、僕らは往々にして「それが疑うべきものであるという事実に気付かない、それどころかその可能性を排除しようとさえする」ということを突きつけられた点でしょう。


それはある意味、徹底的な懐疑論者育成ゲームだとさえ言えるのです。メインテーマの歌詞にさえ「どれが本当?どれが嘘?」と謳われているように、その内容は意味の表裏の嵐でした。そして最終的に、その問いは「信じる?それとも疑う?」を通して、「光はあると思う」に辿り着く。言い換えるなら、本作はそれぞれの読者に答えを要求しているのです。「光はある」ではありません。


僕がここで主張していることは、たったこれだけのことです。
「もしも、もしもあの結末が見えたままではなかったなら?」
僕はその可能性を否定できません。むしろ、それではない可能性の方が高いとさえ考えます。そこで僕は色々と付け足して、僕なりの真相を導いてみたわけです。その結果に不満な人もいるでしょう。強引だと自分でも思う点は多々あります。


ただし、だとしても、「あの結末が実は――だったなら」という可能性自体を否定することは、誰にもできないでしょう。そして、本作は、シンフォニック=レインという作品は、そのもの「目に見える嘘」の結晶だった。だから、僕は改めてくり返したいのです。もしも、もしもあの結末がそうではなかったとしたら? 万が一、だとしたら?
そんなことは考える価値もない? どうして、そう思うのですか?


真実のあやふやさについては、今更僕がここで述べるまでもないでしょう。誰かの真実とは誰かが信じたある事実そのものであって、相対的に見るなら所謂真実ではない可能性が極めて高い。そのことを明白に語ってくれたのがシンフォニック=レインという物語だった。そしてその絶望的な事実――どうやら人の間に真実はないらしい――を前提に、じゃああなたはどう考えるのか? と読者に問いかけてくることこそ、シンフォニック=レインという物語の本当の凄まじさであり、素晴らしさであると僕は思います。


信じることは重要です。では一体、あなたは何を信じているのか。あなたは今あなたが信じているものを、どれ程疑ってみたことがあるのでしょうか。そして疑ってみたその先に、あなたが本心から信じられるものは残るでしょうか。もし残らなかったとしたら、あなたの信じるべきものはなんなのか。そこには理由が必要となるでしょう。自分はこれを選ぶ。なぜなら――だと思うから。


こうして選ばれた真実に、僕は敬意を表したいと思います。合意はできないかもしれない。相対的なそれでしかないかもしれない。それでも、それは確かに真実だと、その人は信じていることを、僕もまた信じることができるからです。