図解! true tearsはこんな話だ


 完。



【おまけ】乃絵はなぜ涙を取り戻さなければならなかったのかについて
 true tearsの最重要項目でありながら、比較的言及されることが少ないように見える「乃絵の涙」について考えてみる。

 そこでは「泣くこと」と「認めること」が同じ意味で用いられているようだ。つまり、乃絵は祖母の死をついに受け入れて泣いたのである。別段自慢げに言う程の話ではない。

 もちろん、そこに至る段取りは存在した。別離をどうしようもないものとして諦めるという側面、まず眞一郎との別れがあったし、彼女はそれを通して、祖母との別れ、つまり祖母の死を実感した。だからキーワードはむしろ「実感」かもしれない。現実は色々と非情なので、それを認め、心から実感した時、人は必ず泣くのだ。

 その意味で、眞一郎は乃絵と共通する涙を流した(13話、薄暮の海辺のシーンは印象的である)。一方で、果たして比呂美がどうなのかについては疑問が残る。彼女は執着の塊の様な少女として描かれているので、比呂美の涙については案外放置されたままなのかも知れない。現実は残酷である。我々はここで涙を流さねばなるまい。


 涙と実感の姿について、北村薫『スキップ』の涙も見てみたい。「昼寝から目覚めると中年のおばさんになっていた女子高生」という誰得、否、実に残酷な設定の作品である。喫茶店でお茶を飲みながら、高校時代の友人からの子供に対する愚痴を聞いた瞬間、主人公は現実を受け入れ、涙を流す。


スキップ (新潮文庫)

スキップ (新潮文庫)


 この作品の真の残酷さは、スキップされた時間が最後まで戻らない点にある。現実的には当たり前の話なのだが、物語を読むとき、我々読者はつい「最後にはもとの時間へ戻るのではないか」という期待を持ってしまう。しかし本作はその期待をケチョンケチョンに蹴飛ばす。時間は戻らないのである。当たり前だが。

 実のところ、物語のごく始めに、この作品は大粒の涙を流している。主人公が眠りにつく前日のこと、明日からの文化祭の出し物として出番を待っていたガリバーのハリボテは、雨に降られて酷く濡れるのだが、そのシーンを作者は以下のように描写していた。

<<明日は晴れる。池ちゃん>>
「何これ」「記念だよ、今日の日の」
ガリバーの頬を雨が絶え間なく流れ落ちる。
巨人は、限りなく哀しいことを見たかのように、声なく泣きじゃくっている


 ついでながら『シンフォニック=レイン』の裏トルタルートの結末間際も引用しておきたい。故郷の街へ戻り、姉の枕元に立った時、当初、思いの外しっかりしているトルタが、一通り独白を終えた後に泣き崩れる。涙一つ見せず嘘を連発し、主人公を含む周囲の人間を誘導しまくり、非道の限りを尽くしてきた双子の妹も、案外チョロいものだ。


工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版


 順序が逆になったが、シンフォニックレイン美少女ゲームというジャンル設定からして嘘くさい虚偽まみれのミステリーで、雨の降り続く街を舞台に交錯する少年少女たちの思惑を通して人の相互理解不能性という絶望について実体験する嫌な作品である。ぶっちゃけ人と人は意思疎通できないよねという話でさえある(このブログでも過去に実例がが)。

 それはともかく、表面上はもっと分かりやすい悲劇がバックグラウンドに存在し、それを覆い隠すための方便として泣かない人とずっと泣いている街という表象が立ち上がってくる。そうした舞台すべてが嘘として暴かれるべく描かれており、この作品においてもやはり、いつしか読者は現実と向き合わざるを得なかった。


 三作に共通するものは、現実は哀しいという認識であろう。哀しいは涙に、涙は雨に、雨は都合の良い現実認識にと置き換えられて、それぞれの物語の舞台を形成する。true tearsであれば「泣かない少女」であったり、「雪の降らない街」であったりする。シンフォニックレインでは「ずっと雨の降っている街」であり、スキップではそのまま「いつか戻る時間」である。

 言うまでもなく、全て欺瞞であり、そんなものはどこにも存在しない。少なくともtrue tearsは涙を受け入れることを視聴者に求める作品であった。そこには作り手の倫理観というべきか、一種のドグマが浮かび上がる。乃絵が涙を取り戻さなければならなかった理由はそこにある。現実は哀しいが、認めなければならない。

 作り手が主張することに対して、人それぞれに好悪の感情があることは理解した上で、true tearsが多くの視聴者に熱狂的に受け入れられているのは、やはりこの主張が尤もであるからという理由は大きいだろう。人を選ぶ作品であったのも仕方ない。作り手の言う現実を想像できない視聴者には共感は難しい。ただの恋愛ものとしても十分に楽しい娯楽ではあるのだが。

 ただし、乃絵が祖母、眞一郎との、あるいは眞一郎が乃絵との別れを通して流した涙が真実の涙であるとするならば、この作り手の言わんとする現実はさらに過酷なものとなる。人は所詮一人だ、という話にまで話題を展開するのは若干まとまりに欠けるので、ここまでで十分にまとまりを欠く文章をこのあたりで閉じておきたい。結局のところ、もう泣くしかないのである。