ガストロノミーの歴史と文化 4章(最終章)

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4. L'UTIMO PERIODO 最終章、あるいは最新の時代


 1860年代以降のイタリア・ガストロノミーの歴史は、大きな矛盾の兆候の下に展開される物語である。しかしそれは、食卓におけるイタリアというアイデンティティの如実な勝利の徴でもあるだろう。フランス料理について語ることの許される指導的立場をパリに置くフランスの事情とは完全に異なって、イタリアの統合はそのガストロノミーの多様性の発見及び編纂と時期を同じくした。


 我々の手に「イタリア料理」なるものは存在しない。何らかの類似したものが、あるいは異邦人向けの表現法の類として、何よりもマスツーリズムが発達した時代に、または巨大ホテルの料理において(1800年代末から1900年代半ばまで)存在するとしても、それらは常にフランス料理の完全な仲立ちを受けている。イタリア料理のアイデンティティの一つは、しかし、夥しい区分の総合の結果として、19世紀後半に成り立つ。


 ローマの事情について考えてみたい。首都の料理は、アルプスの向こう側*1で見かけるところのイタリア料理とは似ても付かない。しかし、それはまさに「ローマ料理」と呼ばれるガストロノミーの形式の輪郭をよくなぞり、また定義している。つまり、イタリアのガストロノミーの歴史というものは、イタリア国家の統一には順応していないのである。


イタリア料理の二つの道:アルトゥージ方式とオステリア方式
 イタリア統一まで、国際的で高級なガストロノミーのモデルは、またイタリア半島においても、パリのそれであった。1800年代前半までに、イタリアには二種類のレシピ集が存在した。一つは宮廷や小さなホテルのための低級なそれ、すなわち地方的で教育的なもの、もう一つは国際的な野心を持ち、地方性の意味を二の次にする、とにかくフランス料理の系統に所属する(『パリで一人前になったピエモンテの料理人』やCavalcantiの『La cucina teorico pratica』のような)高級なそれである。この第二のモデルは20世紀の殆ど終わりに至るまで貴族や裕福な旅行客たちに独占的であった大型ホテルの料理に居を移す。1800年代後半から、国家的ガストロノミーモデルの実現に関する新たな言及の基準が現れ始める。現代イタリア料理のアイデンティティ創造に関する第一の重大な言及点は、Pellegrino Artusiによって体系化された。第二のそれ、まるで鏡像のように対照的なそれは、ごくイタリア的な現象、オステリアについてである。


 Artusiの著作はブルジョワジー的な農民の伝統へのアプローチに依拠し、農村と都市の間の料理に関する知識と技術の連続性を模索する。彼は食品やレシピを地域ごとに、この場合の地域性なるものはトリノジェノヴァヴェネツィア、ローマ、ナポリといった具合に、殆ど州都と同一視されてはいるとしても、列挙・格付けした。今日ではかほど部分的に見えるこの地図作成作業の目的は、当時のイタリア鉄道網の限界により、すなわちArtusiは鉄道路線の存在する地域を歴訪した。この交通手段に関する事実は、ガストロノミーの歴史にとって本質的である。列車の登場、そして自動車の登場は、二つの極めて示唆的な、かつ変革のステージを記している。食品の地理的な知識、そしてそうした知識とその交換は、我々がこれまでに示した様々なパノラマを集約することを可能にする。つまり、この総合的なモダニゼーションの文脈に挿入される、ガストロノミーのガイドとしての役割である(この点に関してまもなく簡潔に述べる)。


 Artusiの著作、『La sciena in cucina e l'arte di mangiar bene(1891)』は、ガストロノミーにある種の一貫性をもたらす。大きな欠落や明白なアンバランスがあるとしても、それは地域性に基づく一体性である(例えばイタリア南部に関して、Artusiが触れているのは、シチリアからの三品を除くと、ナポリまでである)。『La scienza in cucina e l'arte di mangiar bene』は、「独自性」の決定について、以下の二つの本質的な特徴を持っている。一つにははっきりとブルジョア婦人に向けられたもの、すなわちレストランではなく家庭向けのものであること。二つに、それは誰にでもアクセスできるレシピであり、現在でも改善され続けているものであることである。都市の主婦や農家の妻たちは次々と新しいレシピをArtusiに郵送し、それらは続刊に収められることになる。ともかく、この新しいガストロノミーのモデルは成功し、都市部において洗練と上品の同義語になり、同時に家庭料理の新しい形ともなった。つまり、フランス式ガストロノミーの伝統との差違とは以下のようなものである。

 Artusiの作品は根本的な点でフランスガストロノミーのモデルと対置される。それは食事の持つ「肉体の休息のため」という側面を下位に付け、味覚に対する価値を家庭に連れ戻すのである。それは暗黙の内になされる選択ではない。彼は(共に今では存在しない村落である)ポレセッラやモディリアーナから、少数のオステリア、幾つかのリストランテ、非常に多数のトラットリアを引用しながら自身の見解を明確にする。ことに1900年全体を通してツーリズムが食事の品質に与えた影響を明白にし、また旅館料理の単調さだけでなく、しばしばドイツ人たちによって訪れられた界隈の「しまりがなく吐き気のする味付け」についてもはっきりと言及している。
A Capatti, Lingua, regioni e gastronomia dall'Unita alla seconda guerra mondiale, in Storia d'Italia. Annali 13. L'alimentazione, Einaudi, Torino, 1998, p. 779.


 アルトゥージのレシピ集が、都市の魅力、そしてメニューの上品さや洗練度合いによって構築されるその地理的ガストロノミーの中心は、ローマではなくフィレンツェであり、より一般的に言うなら、トスカーナボローニャ、そしてエミリアロマーニャ(彼の生まれ故郷である)全般、あるいは統一イタリア全土の言語学的・文化的ガイドブックの数々である。そう、言語の問題はイタリアガストロノミーを語る上で置き去りにすることはできない。アルトゥージはガストロノミーの規範をもう一度田舎から都市へと移動させ、地域間比較を多用することで、ガストロノミー史の言語的な面もまた統合する。つまり、差違によって浮かび上がる統合である。


 まもなく多くの人々がアルトゥージの計画を模倣し、1900年代初めの数十年間の間にはその過程を完了しつつあった。最初の段階はおそらく二つの局面を通して達成された。品目を地域性に基づいて分類した初めてのレシピ集は、Agnettiによる『La nuova cucina delle specialita regionale(1909)』である。たとえ(アルトゥージと同様に)トスカーナエミリアロマーニャ中心主義(紹介されている品目のほぼ半数がこれら地域のものである)だったとしても、その多くのページを南部について、あの無愛想で未知のサルデーニャ島から6品目を紹介するに至るまで割いている。続く第二の歩みはおそらく『La Guida gastronomica d'Italia del Touring Club(1931)』であろう。このガイドブックはレシピ集ではあるが、同時に、クラブ会員(3000人を越える)からのアンケートに基づいた地域産品や資源に関する広汎な地図を提供している。このガイドブックは地誌学的な意味で地域特性のカタログである。例えばリコッタチーズについて、パルマ近郊の、ローマ平野の、サルデーニャの、カラーブリアの燻製された、プーリアとバジリカータでの強い味付けの、といった具合に。


 ここで強調すべきことは、フランスでは同様の行為が一世紀以上前に完遂されていたことである。Charles-Louis Cadet de Gassicourtによって1808年に発行された『Il Corso gastronomique』は、フランス各地の特産品のシンボルがちりばめられた図解であり、1897年刊のドイツの辞典『Lessico universale dell'arte culinaria』にも収録された。どちらにせよ、Artusiに取り残された南部地域は、こうしてイタリアガストロノミーの版図に組み込まれることになり、また拡張的政策をとっていた時の政府の意図にもよって、ガストロノミーの中心はローマ及び地中海に移動する。この段階で、イタリアガストロノミーの舞台には、もう一つの主要な要素が参入する。オステリアである。


 オステリアは異国の旅行者をまっさきに驚かせる、イタリアの特徴的な現象である。ドイツのガイドブックBaedeker(ヨーロッパ中のブルジョワ旅行者に用いられた)の『Manuale del Viaggiatore in Italia(1872)』の中では、オステリアは美味しい食事のためというよりも、人類学的な知見の精神のための箇所として、どちらかと言えば悪名高い界隈として捉えられていた。また別の重要で特徴的な作品、イタリアガイドブックの先駆けでもある『La Guida delle osterie italiane』は、こちらもドイツ人でありローマへの移住者のHans Barthによって1908年に発行された。ベローナからカプリまでのお勧めルート(ミラノ、トリノジェノバヴェネツィアボローニャフィレンツェ、ローマ、ナポリ経由)が彼の母国語で書かれたこの書籍は、D'Annunzioの紹介文と共に翌年イタリア語に翻訳される。さて、ここで1900年代初めの数十年間を眺めると、一見矛盾したような状況が現れる。20世紀の20年代から30年代にかけて、まずナショナリズムが、続いてファシズムが、Artusiによって発明された非常に多くの国家-地域的料理モデルを使用する。フランス式伝統の影響がますます強くなっていくのとは対照的に、言語的な分野においても、全ての外来の用語が追放された。しかし、興味深いことに、ファシズムは、Artusiとは異なり、外国のレストランに対するイタリアの食のルーツとして、自然で正真正銘の家庭料理が提供される公の場所として、オステリアもまた自国の食のシンボルとみなしたのである。


 この時期、エミリア州のオステリア、ことにボローニャのそれは、イタリア最高の食事形式の同義語となっていたと思われる。30年代から50年代にかけて、家庭料理の覇権が続いた。高級料理に関する出版物が極めて少ない反面、数々の書籍やレシピ集が発表されたことが、この構図を特徴付けている。「家の料理は美味しい」、あるいは家庭の内側の延長としてのオステリア、といったものがこの時代の根本的な意識である。主に英国人向けに運営されるイタリア半島の大きなホテルでは、決してイタリア人シェフは選ばれず、フランス人シェフが選ばれた。オステリアもまた、Artusiの思惑に反して、国家アイデンティティ統合のための場所となっていく。


 (ここでひと言付け加えておくべきだろう。標準化され国家化された味覚の創出に寄与した諸要素のうちで、軍隊の食事はとうとう沈黙を守ることが出来ず、特に第一次大戦の間、カフェ、乾燥パスタ、缶詰入り肉、タラ、チーズといった兵隊達の配給食は国家アイデンティティの糊となった。こうして工業レベルの食品生産の場はガストロノミーを含意するようになり、少なくとも大手の店舗では、低レベルの食堂においても表現されるようになった。サイコロ(dado)と呼ばれる半調理済み食品、肉と皮むきトマトの抽出物は、当時の経済状況や調理の便利さに加えて、解放者、「進歩主義」というイメージに後押しされ、爆発的な成功を収める。)


 オステリアはイタリア性、純粋性、社会性を再統一する場である。地域料理というオステリアでの現象は今や公式のものとなり、1900年代前半にはイタリア中に氾濫している。Paolo Monelliによる1935年の『il Ghiottone errante(さすらいの食いしん坊)』は、専ら典型的なトラットリアについて、そこで見られるフランス風の、「気どり屋で無内容な」、大部分のホテル付きレストランに特徴的な各種の試みについて触れている。


 このように、豪奢なレストラン(多種多様な国々の料理がシェフによって異種混合的に用意される)と、地域的で土着の彩色をこらした、フォーマルというわけではない、気の利いた、大いに性格のはっきりした料理を出すレストランとの間にも対置の関係が整う。1900年代と共に、料理界においては「地域特性」という概念に光が当てられる。このことは徐々に、しかし決定的に、イタリア料理界を「フランス風」の抑圧から解放するのである。イタリアンオステリアの伝説に関するこの特徴的な出来事について、一人の権威ある学究は以下のようにまとめている。

 まず低級な食堂として、ネオン看板、そしてテーブルの上のフィアスコ瓶と共に世界中にまき散らされ、その後に、給仕たちだけが急いで歩く、豪華な設えの静かなサロンへ。スター調理人、ステージとしてのオステリア、目もくらむようなパスタ・・・イタリア神話はすべてここに存在する。この神話は、最初から高い評価を受けていた。こうした看板が有名になると、小さな部屋で「公の家族」によって振る舞われる食事を、ガイドブックなしに一人で選び、またそうした店を見つけ出し、食べることを夢見たのである。
A. Capatti, L'osteria nuova. Una storia italiana del XX secolo, Slow Food Editore, Bra, 2000, p.124.


 さて、こうした全ての結果、イタリア料理はまた別の性格を強調する。まさに田舎でこそ、地域のアイデンティティが強く、より明快に食品に持ち込まれるという理由から生じる、都市(もちろんローマのような大きな例外も存在するものの)に対する田舎の自主性(そしてしばしば優越性も)である。第二次大戦から70年代の間まではオステリアにとって危機の時代であった。オステリアという言葉はわびしく、貧しく、たくさん食べられるかもしれないけれど非常にまずい食事を出す場所の同義語となり、どちらかと言えば旅行者向けの、新発明されたレシピに民俗学的な名称を冠した品目を提供するレストランやトラットリアが登場しはじめる。


 しかし全般的には、これまで我々が見てきたように、一つの理由に基づき、今世紀イタリア料理は、フランス料理とはっきりと区別される。結局のところイタリア料理には、高級レストランで供されるご馳走、そして田舎の小さなレストランのメニューに並ぶ伝統的で地域的なメニュー・・・あるいはずっと長い間個人の、というよりも貴族の領域に留まっていた高級な料理、一方でずっと下層の、庶民たちの伝統に刺激された公共の食事という「美味しさ」についての二つのガストロノミー的なコンセプトが同居しているようである。


 こうした状況は、ヨーロッパにおいてガストロノミーの覇権を握る二国の差違を把握するための与件となる。それは食という財産に関する評価の違いに、そして(少なくともごく最近までの話をすれば)なによりもシェフやコックの姿にそれは如実に現れる。アルプスの向こう側で活躍する、数々の国家的な公認を受けるような、偉大で著名な第一級の人物は、我々のそれに比べてずっと低い評価を(あるいは疑いの視線で見られることさえある)与えられる。この傾向が変化し始めたのはつい先日のことで、それはマスメディアへの料理人の露出や、そこでガストロノミー的な議論が日増しに増えている事実に見られる。


 我々の辿った道のりを締めくくるにあたり、我々のガストロノミー的アイデンティティに関するもう一つの重要で根本的な要素を仄めかしたい。50年代に至るまで、国外にイタリア料理というモデルが存在しなかった(移民向け以外には)にもかかわらず、世紀の初めには既にもう一つの重要な現象、すなわち「ガストロノミーの地中海化」が現れる。それはイタリアに限定できる話題ではなく、また(ファシスト支配下の)20年間も除外しなければならないものの、

 それは20世紀初頭に、岩礁に住む魚類、新鮮な野菜、オリーブオイル、刺激的な味覚と鮮烈な色合いといった要素に導かれた海洋ツーリズム、すなわち太陽へ向かう旅(ナポリの青い海岸と島々を目指して)と共に生まれた。この流行は北部イタリアや諸外国においてはパスタや初物野菜、果実、カタクチイワシの缶詰といったものに関する年間の工業生産の需要を保証する。加工トマト生産の主力はパルマピアチェンツァ(北中部イタリア)であったにもかかわらず、ナポリ界隈に産する品種サンマルツァーノ種がチリオ社の独占的なシンボルとなる。
A. Capatti e M. Montanari, La cucina italiana. Storia di una cultura, Laterza, Roma-Bari, 1999, p. 38


 ガストロノミー的には奇跡風であったりセラピー風であったりする、「南部(ヨーロッパから見ての南部)」に関するロマンチックな神話は既に誕生していたが、それからほんの数十年後に、ダイエット方向からの議論の余地のない明白なサポート——ビタミンとオリーブオイル——を得て、こうした流行はますます盛り上がる。この種の神格化はアメリカ人研究者たちに、ことに有名な『Eat well and stay well. The mediterranean way』(1961)を著した栄養学者Angel Keysの発明である「地中海式食生活」というコンセプトに由来するだろう。そこでは脂肪、バター、ラードといったArtusiのモデルはラディカルに罷免され、オリーブオイル、パスタ、果実、野菜といった「フレッシュな」産品に優位がおかれた。しかし、この思想はファシスト時代の自給自足政策(『Trattorie d'Italia』は1938年に全国ファシスト同盟出版局から刊行されたことをもう一度思い出すとよい)や、とりわけドイツ人たちの中で長く生き続けた「日差し溢れる南部」という一種の後期ロマン主義、その「天然で優れた地域自然発生の・・・」的なイデオロギーに根を降ろしている。50年代末から60年代以降にかけて、地中海料理はイタリア料理の同音異義語となり、一つに混じり合って、世界中で人気を博していく。世界のどこであれ、「パスタ」や「ピザ」が何を人々に連想させるかは言うまでもなく、関連する様々な要素(ピッツェリア、バール、オステリア、リストランテ・・・)がそれらの周囲に居並ぶ。なぜこのような出来事が起こりえるのか? 一つの仮説を推してみたい。繁栄、経済ブームといったものは、一方で伝統や知識の喪失というリスクを際だたせたが、標準的な外食産業(もちろんオステリアも含まれる)レベルの改善という思いがけぬ効果をもたらし、それらを「絶滅の危機」に瀕した味覚や知識を再発見する場とした。「イタリア料理」というモデルは、今日の世界で極めて強力である。様々な材料を使用し、バリエーションに溢れ、また洗練された品目を持つそれは、「地中海式の軽い食事」と同一視され、記憶や生物多様性の漸進的な喪失と、それらに関する全ての価値ある保護活動の間の両義的関係のよきシンボルとなっている。


群像。料理をめぐる配役たち
 料理の世界とは、なによりも、魅力的で複雑な技巧の世界である。美食家とは異なって、まるで芸術家のように、料理人は自身の作品——高級な料理の世界では「創作」と呼ばれる——を作り、それについて語る。しかし「料理人」とは、かつて、事実上現在においても、様々な異なった内容を意味する。中世には、宮廷や王族のための料理が階級的に組織されたグループによって作り上げられた。それを管理し、すべての行程に渡って命令を行うのは給仕頭である。次に「上料理人(sopracuoco)」、「下料理人(sottocuoco)」、助手、そして給仕が存在している。さらに宴席にて味付けを施す食器係、および切り分けを担当する包丁係も重要である。この中世のヒエラルキーは、近代フランスガストロノミーにおいて規定に関する若干の修正が加えられただけで、1800年代いっぱいを、すなわち料理人の仕事場が貴族の屋敷や宮廷といったものから公共の場、すなわちホテルやレストランに移り変わる時代を生き延びる。


 亭主の姿は大きく変化する。当初、彼の切り盛りする場はしばしば、あまり無頓着な人々が通う、メニューもない、あり合わせのサービスが提供されるようなきばらしの場である。地域料理に関する調査編纂の結果として、1800年代後半からこの状況は変化していく。ガストロノミー的な提案を——それが彼らの貧しさ、あるいは限られた選択肢に過ぎなかったとしても——行うオステリアの数は増え続けていく。ガストロノミーの歴史の中で女性が果たす役割は独特である。彼女らは19世紀になるまで低い身分に追いやられており(女性料理人(cuoca)という言葉は、1746年になって初めてレシピ集の中に登場する)、それが表舞台に現れるのは、ガストロノミーがブルジョワ的、地域的性格を獲得する段階、例えば——イタリアでArtusiの著書が達成したような——を待たなければならない。女性調理人が男性同僚より優れているという神話は、貴族と民衆それぞれの料理の融合から生まれた概念であり、1900年代には大きな妥当性を得る。結果として、新しい家庭的な心配事が発生する。

 女性料理人は、金がかかり、うぬぼれ屋で、健康の敵である男性料理人に対する優位を手に入れる。彼のライバルは見た目よりも栄養にこだわり、味よりも価格にこだわる(中略)。女性オーナーシェフは、三つの文化的モデルと密接に関係する。食に関する家督権、ガストロノミーの現代化、そして家計である。食の家督権はファンタジーのためではなく労働力のためのメニューによって構成される(中略)。大衆向けのレシピ集はこうした保守主義の土台に新しい風を、すなわち地域的というよりはイタリア的で、田舎風というよりは都会風の献立をもたらす(中略)。家計は上述の三つのモデルの中で最も観念的なものである。この衛生学とテーラー主義の娘にとって、地域料理知識の保全は好ましいものではなく、またガストロノミーの革新もその心を動かすものではないが、しかし彼女は美味しさに対する財政的視点の、楽しみに対する健康的観点の優位性を、それぞれ体現する。


 食通とは、結局のところ、多様かつ魅力的な姿を持つ。ギリシャ古代ローマの時代から、Archestrato、Ateneo、Apicio、Macrobioといった人物たちが、彼らの文明のガストロノミーに関する経験と知識を伝えてきた。中世イタリアではPlatina、Scappi、Ortensio Landoや他の偉大な指導者たちを見いだすことができる。近代ではGrimond de la Reyniere、Brillat-Savarin、またイタリア人ではPellegrino Artusi、そして我々の時代にはCarnacinaやVeronelliといった人物たちが立派な足跡を残した。食通とは、社会の(しばしば上流の)一定層、すなわち料理の周囲で議論し、解釈と説明のための脈絡の糸を探し求め、カレンダーやガイドブックや彼自身が書きためたメモを信頼する人物である。食通たちは食事やガストロノミーに対する倫理的で、時に道徳的で、ひょっとすると哲学的でさえあるアプローチを提案する人々であり、また会食を企画し、献立や料理人たちを褒め称える人々である。その形成を通じて、彼らは物質的なガストロアリメンターレ文化下層の水脈と、高度な料理文化、すなわち芸術的であったり、科学的であったり、そして哲学的であったりするものとの対話(そして交換)を可能とする仲介者を常に持っていた。我々が既に見てきたように、食通の中心は料理人であるが、一般的に彼らの文化は十全ではない。そこで、食に関する知識を文字として、観察可能なものとして記録し、子孫に伝える役割とは、こうした重要な仲介者たちが担う。それは「印刷機」とも呼ばれた人文主義者Bartolomeo Sasshiであり、医師Ortensio Landoであり、弁護士Grimond de la Reyniereであり、判事Brillat-Savarinであり、新聞記者かつ哲学者のLuigi Veronelliである。


(訳注:会員向けテクストなので、会員の多数を占める名士の立場を持ち上げて終わる。それがイタリア人クオリティ。)



まとめにかえて
 原文『Storia e cultura della gastronomia』はイタリア・スローフード協会発行の会員向け講座テキストです。一時日本でも取りあげられたスローフード運動も、存外理屈っぽく面倒くさかったためか、すっかりLOHASに(そのLOHASも今やかっこ笑い付きの扱いですが)おはちを奪われてしまいました。しかし、食の歴史と文化について、知識人の蘊蓄を正当化するというスローフード運動の試みは、週刊誌やワイドショウの文脈には適さないとしても、好奇心ある生活者にとってごく興味深いものですし、また現代、ある層の立場の復権という課題にとっても、興味深いものではないかと思います。


 スローフード運動は、イタリア・ピエモンテの不良親父(違法ラジオで何度もガサいれを受けている、どうみても真っ当な人間ではない)が始めた、例えば「美味しくて、清潔で、正しい食事」を掲げる、一種の政治運動であり、経済活動であり、啓蒙活動であり、実益活動です。それは貧しい農家の産品を保護指定し、間接的にプロモートし、書籍を刊行し、教育機関を設立し、地域運動を組織し・・・・・・その名声と地位を利用して美味いものを食べ歩き、政治家と仲良くなり(←今ここ)といった、現代イタリアのある側面の結晶です。


 『ドン・カミッロ』という有名なシリーズ(翻訳されていないようなので、いつかここで勝手に訳しましょう)で描かれるように、少し前まで——というのはそろそろみんな死んでしまったからですが——イタリアでリベラリズムに溢れた教養人、名士といった人々の多くは元ファシストでした。実際に、イタリアで最も左翼的傾向の強い地域は、最も経済的に豊かな地域でもあります。日本人は本音と建て前が・・・というのはよく言われますが、イタリア人はその比ではありません。むしろ、日本人は両者の切り分けが苦手です。アメリカ人だって我々よりよっぽど上手に両者を使い分けます。


 スローフード運動は、現代イタリアの政治活動の一つであり、また、金にならない学問を修めた貧乏学者たちのコミッティーであり、野心的な若い農業者の武器であり(イタリアの成功した農家の妻はしばしば元モデルです)、小金持ちな蘊蓄親父たちの心の支えです。美味しくて高い食事はなぜ価値があるのか、美味しいワインに散財することがいかに正当な行為なのか、そういった問題についてもっともらしく語りながら、隣の席の美女を口説く活動でもあります。実にイタリア的ですね。


 冗談はともあれ、スローフード運動は、各種の実際的な、つまり現実を分析的に扱うジャンルでも活動しています。例えばここで訳した文章のように、カパッティ氏やモンタナーリ氏といった、運動の学問的指導者は、その広い学識(自分たちの文章で自分たちを権威ある学究と表現してしまうところがイタリア人ですが)で、掛け値なしに面白い文章を書きます。視点が西ヨーロッパに留まるのはいかにも残念ではありますが、逆に、我々日本人はどこまで自国の食文化について知っているかの「比較の石」とすべきでしょう。


 まったくまとまってはいないような気もしますが、とりあえず今朝はこのあたりで終わることにします。

*1:訳注:イタリアから見たヨーロッパ