ガストロノミーって?

 
 海燕さんのところから人が来ていると思ったら「あいつは何書いてるのかさっぱりわからん」と言われていただけだった! 敷居さんによく言われるけど「ブログ記事で基本的な事項の説明をなおざりにすると殆どの読者に伝わらない」というのは事実でしょう。しかし基本的な事項は自分で調べるものですから各自努力してください! 最近更新さぼり気味なのに覗いてくれる皆さま感謝してます。


 ガストロノミーというのは美食学とでも訳されるもので、食道楽とほぼラップして認識される概念です。平たく言えば美味しんぼ的なあれ。しかし海原雄山では世間の合意が取りにくいし、さりとて山岡士郎でも深みがない、というか商売にならない。そこで例えば栄養学、文化人類学といった学問を引用してハクを付け、またスター調理人を持ち上げてメディア受けも狙う。


 違った。食事は人間にとってごく根本的な行為です。食べないと死ぬ。けれど、いくらビタミン神話がサプリ全盛の時代をもたらしたとは言え、親しい仲間と机を囲む夕べ、あるいは昼食の喜びは、生命維持のための栄養摂取とは別次元のもの。明らかに、人はただ死なないために食べるわけではないのです。


 そこで何を、どう食べるか。それについて総合的に扱う学問領域としてガストロノミーが、どうもニュアンスが悪いのでネオ・ガストロノミーと呼ぶ人もいますが、定義されました。


 夕食に何を食べる? 誰と食べる? どういうシチュエーションで、どんなテーマで?


 否定しがたくその根本にあるのは美食趣味です。ただ、美食趣味という言葉の持つ、社会的マイナスのイメージは、これからもずっとそうである必要はない。だって、楽しい食事は楽しいもの。そうでしょう?


 別に豪華な食事である必要もありません。誰かと食べることが絶対条件でもない。ただし、自分が何をどういう文脈で食べているのか、それについては自覚的であった方が、何かと人生に潤いがもたらされたりするような気がしなくもないとはお釈迦様でも言わぬ仏のお富さんだとは言い切れないのではないでしょうか。

様々な文脈と人生の例
・マックポテトLを食べる→脂肪がたまる→ピザも食べる→脂肪がたまる→病院で栄養食
・母親の肉じゃがを食べる→幸せになる→家から出たくない→ハレルヤ→いくえ不明
・恋人の料理を食べる→ただしイケメンに限る→残され島→ヤマト発進


 太古の人類は、飢餓と対比されるものとして、危機感と共に食事を取っていたでしょう。今日の僕らには飢餓の心配はまずありませんが、逆に、食事それ自体が認識に占めるウェイトは低下しています。だって何も考えなくても食べられるし、まず死ぬこともない。そもそも他に頭を使うことはいっぱいある。


 事実、日本の食事環境は比較的恵まれているので、例えば「ピザは野菜(ポテト)とタンパク質(チーズ)と炭水化物(小麦粉)を兼ね備えた優良食品!」と小学生が力説するようなことはありません(アメリカの小学校では本気でこういうことが教えられたりするらしい)。残念ながら、日本において、ガストロノミーの実際的必要性は乏しく見えます。


 だから結局のところ、ガストロノミーは一種のゆとり教育だと僕は考えています。それも、大きいお友達向けの。何を食べるかを決めることは日々の選択。忙しい毎日、自分の意志で決定できる、些細な、しかし貴重な人生の選択の一片です。今日はどこで何を誰と食べたか、寝る前に思い出すのは、きっと楽しいはず。


 当たり前になりすぎて失われた、食事をすること自体の喜びについて考える。ガストロノミーはそんな感じの学問です。