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hajic2005-04-23


『結局のところ、人は一人では生きていけないの。
 私も、あなたも。皆が皆、誰かを利用しているんじゃないの?』

なんてこと、私にはファルシータのことばが否定できない。
彼女の信念が間違っていることはわかるのだ。
それなのに、彼女の言うことは、あまりにも正しい。


日本のサブカルチャー(漫画ゲーム文化でもなんでも良い)は、知らないうちに、どこかにうっかり大事なものを置き忘れてしまっていた気がする。とても大事なものなのに、けして触れられることがない根っこ。つまりそれは他でもない、愛についての問題である。

考えてみると、日本語として”好き”という言葉はよく耳にしても、「愛してる」という言葉は耳慣れない。それが臆面もなく使用されうる状況は、せいぜい結婚式での誓約くらいだろう。だとしてもその言葉は、苦笑いせずにはいられないほどに、嘘くさい。

どうやら私たちは、愛という言葉を信用しておらず、その価値についても、あまり深くは考えないようにしているらしい。そのくせ私たちは”好き”についての数多くの(それこそ一年に数十作は下らず生産される)物語たちを知っている。アニメでも、漫画でも、ゲームでも、それらはそれこそいくらでも存在する。


だが、「愛」についての物語はどうだろう。何か思いつく作品はあるだろうか。そもそも「愛」って何なのだ。よくわからない。私たちは、「それ」のなんたるかをよく考えないままに、”好き”の延長として、恋愛ごっこを続けているだけではないか。ひたすらに優しい関係を続けたい。人と触れ合いたい。自分が傷つかない限りは…。

そんな恋愛ごっこ、80年代の三角関係ラブコメを通して、すくすく発達した漫画的恋愛関係は、いわゆるギャルゲーにおいても、択一的恋愛関係として、その構造的主流となった。言い換えるなら、”好き”で始まった男女関係が、二つ以上の”好き”の中で修羅場を迎える、という黄金パターンであり、どちらかを切り捨てなければならないという感傷がひたすら涙を誘う。

だが、ご存じの通り、それの行き着いたところは、『君が望む永遠』だったのである。ああ、あの目を覆いたくなるような惨劇! あの物語がなぜ、あんなにも泥にまみれて見えたのか。私にとって、今やその答えは明白なように思える。端的に言えば、『君が望む永遠』には、実際のところ、「それ」がなかったのだ。ただそこにあったものは、優しさという仮面に隠した軽蔑と、エゴイズムのみで。


行き着くところまで行き着いた、空しい優しさ、数多の恋愛ごっこの死骸の上に、今日『シンフォニック=レイン』や『GUNSLINGER GIRL』といった作品が現れたのは、ある意味必然なのかも知れない。それらは表面上どのような表情を見せるにせよ、単なる”好き”を超えた世界の存在について語っている。それは好きだけでは生きられない、世界の本当についての物語であり、そのために、ちっとも優しくはないし、面白くもない。

それでも、ひたすら優しさを追求しつづけた”好き”の物語たちが崩壊した(少なくとも、もはや私たちはそれを素直に受け入れられないだろう――「ゲームとして」ならばともかく)以上、何かしらの答えは必要であった。なぜなら”好き”の物語の崩壊は、私たちの世界に対し、私たちが抱いていた優しい幻想を、完膚無きまでに打ち砕いたのだから。言い換えるなら、私たちは「好きだから生きているわけではない」ということを突きつけられたのである。


実際、”好き”だけでは本当の物語――すなわち世界が成り立たないことに気付いた作家陣は、今日すっかり方法を見失ってしまった。ゆえに彼らは近親相姦を肯定し、刃物で恋人を切り刻むことを願い、学生同士の殺戮を演出することで、その物語が”現実”に近づくことを期待した。しかし、それが”現実”に近づけば近づくほど、むしろ「本当」からは遠ざかっているような気がしてならない。いったい、そもそも私たちはそんなものを求めていたのだろうか? それは根本的に、何かを欠いている気がする。

確かに現実は辛いし、あんまり面白くもない。だとしても、私たちはそこで生きて行かざるを得ない以上、そこから価値を見出さなければやっていられない。優しくもなければ幸せでもない世界でも、それが確かにここにあり、私たちが間違いなくそこで生きている限り、それ自体に何らかの意味があるとしなければ、なんだか哀しい。だって、好きだから生きていくとしたら、好きでなくなったら生きて行かなくてよいのか? 私はそうだとは思わない。そこには、まだ何かがあるはず。


などと、偉そうなことを言っておきながら、じゃあ何だよと聞かれると大変辛い。辛いが、とりあえず今なら、『シンフォニック=レイン』や『GUNSLINGER GIRL』を読んでくださいと言える。少なくともこれら二作品は、真っ正面からそれを扱った作品だから。そして、なにより、私たちはすでにそれを知っているはずなのだ。例え口で言えなくとも、説明は出来なくとも、それがどのようなものか、私たちは確かに知っている。だからこそ私たちは、「愛してる」という言葉を、軽々しく紡げない。

そんなわけで、もし私が彼女に何か言えるとしたら、それはただ一つ、この言葉だけである。
「そこにはあまりにも、愛がない」