たちきれ線香 再び

HDDの隅から桂米朝の『たちきれ線香』を発見。落語というものはこういう側面もあるのだということがよくよく分かる一品。心からお薦め。

「芸者遊びも結構どす、ただし遊びにお出で遊ばせ。一生懸命になって通うところではないと思います」

落としネタの説明を兼ねた小咄、かつて花街では線香一本いくらで時間料金を取っていたというところから始まる冒頭、舞台は一気に大阪船場の大店。親族会議への若旦那の怒鳴り込み、番頭の策略で百日の蔵住まいに彼が落ち着くところまでは問答無用の展開である。
事情も何も分からないままストーリーは進むが、まもなく色町通いの過ぎる若旦那の頭を冷やすために番頭が仕組んだ筋書きであったことが明らかになる。一方、毎日倍々で届き続ける馴染みの芸子からの手紙は八十日目にぷつりと途絶えた。百日が経ち、気の落ち着いた若旦那を蔵から出す番頭。

手紙の件を知り気が気ではなくなった若旦那、さっそく花街へ向かうも、既に彼の思い人は死んでいた。今日は三七日、彼女の同僚もやって来て、ささやかな身内の法要。
女将の勧めるお銚子を若旦那が飲み干したところ、唐突に鳴り出す三味線。地唄『雪』、若旦那の好きな曲であり、また追善の歌でもある。感極まり「もう女房と名の付くものはとらん」叫ぶ若旦那。
鳴り始めた時と同じように唐突に止む三味線。いぶかしがる若旦那に、女将が告げる。彼女はもう弾けません、線香一本、たちきれました・・・。


さて、どうだろう。ちっとも面白くなさそうだ、と思う人も多いのではなかろうか。少なくともいわゆる落語的な、理不尽で破天荒な馬鹿馬鹿しさというものはこの噺においては影をひそめている。
逆に、そこでは実に多層的で緻密なドラマが展開されるが、それ自体は笑えるようなものではなく、むしろこの42分の物語が紡ぐのは悲しい恋の顛末である。


戦後の荒波に飲まれ現在では見る影もなくなったものの、かつて大阪船場と言えば江戸に勝るとも劣らない一大商都、そこの大家なのだから世界レベルの豪商。その一人息子と商売女の恋路と来れば、誰がどう考えても上手くいく訳がない。二人とも世間知らず過ぎるのだ。

世間を知り尽くした意識。名家の持つ良識の権化のような番頭。良識と言えば響きは良いが、それに沿えない人間には容赦しないシステムの執行者でもある。考えてみれば彼は小糸を死に追いやった張本人の一人であり、実際作中では全くフォローはされない。
ただし、繰り返しになるが、彼は良識の人なのである。すべて家のために良かれと思い行動しており、実際結果として小糸の死という“無難な”結果を得た。ここに僕は強い皮肉を見る。大筋で正しい結果を生み出す仕組みは、理解しながらも小さな喜び達を押しつぶす。


小糸と言えば、彼女は面白いキャラクターである。若旦那と恋仲であり、彼の蔵住まいという大事件を引き起こした最重要人物でもあるのだが、回想として挿入される会話を除き作中には一切直接登場しない。不思議なことにそれでも確かに、彼女は生き生きと作中に存在している。シンフォニックレインの某キャラクターに似ている。

そして若旦那。易々と番頭の計略にはまり、結果として小糸を失ってしまう本作の主人公。元はと言えば彼が頭に血をのぼらせたのが問題の発端であり、最後まで思ったことを口に出す悪い癖は直らない。結局のところ彼は、人の弱さのシンボルなのだろう。
自らのミスで恋人を失うが、彼が宣言通り妻をめとらないかどうかには大いに疑問が残る。むしろ、番頭あたりに丸め込まれて素晴らしい奥さんを貰う姿が目に見えている。まあ、それもそんなものだろう。この物語は皮肉の物語なのだから。


そう実際、ラストシーンで小糸(?)*1の引く三味線の意味がレクイエムであったり、線香が燃え尽き、もう二度と弾けないであったり、そこで強く示唆される「永遠のお別れ」は、若旦那に向けられた小糸からの「赦し」を思わせる。
このぐだぐだなお話は、悲しいはずなのに、どことなく優しい。どの人物も精一杯真面目に生きているのだが、どの人物も自分の行為が本当に正しいとは思っていない。実際、彼らの辿り着いた先は一流の悲劇であった。
それでもそうして現実を生きていかずにはいられない人間たちを、「もう、仕方ないんだから…」という愛の視線で包むのがこの『たちきれ線香』という落語である。頭に血をのぼらすことも、心に蓋をすることもなく、素直に現実を、涙と笑いの中に受けとめる姿勢で。


こんな情愛のドラマを内包した落語はそうそうないと思う。「恋愛けっこう、しかし本気になるな」という番頭の言葉も、思い焦がれ焦がれてついに死ぬ小糸の姿も、『雪』というレクイエムのうちに収束していく。何が正しいかは分からない。ただそこには、面白く、悲しく、けれどしっとりと暖かい空気が満ちている。そしてこういうのを本当の喜劇というのではないかと、僕は思う。

*1:意地の悪い、あるいは穿った見方をすれば、これさえ番頭が女将と示し合わせて演出した場面とも思える。個人的には素直に小糸の霊がつま弾いていたものだと信じたいが。