GUNSLINGER GIRL: id:genesisさんの日記への脊髄反射

この物語の主体は〈救済されえない男たち〉の方ではないか

博物誌 12月27日付け記事より
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20051227/p1


主体という言葉に若干の語弊はあったとしても、私はこれに同意します。可哀想ですが少女たちの人生は既に終わってしまっていて(第六巻・アレッサンドロ「彼女の魂はどこへいくんでしょうね」)、残ったのはもっと可哀想な、むくわれないおやじ共の人生の落としどころ探し、という雰囲気であります。ことにジャン・ジョゼ兄弟のそれへの焦点が徐々に合わせられつつあって、救われ無さはいよいよ加速する気配が濃厚。


しかし、共通するものが”自らの結末探し”だとして、問題の「おやじ共」にとっての「彼女たち」の意味とは何なのでしょう。なぜなら彼女たちは落としどころを探すおやじ共の拠り所ではありますが、単純にそれだけのものではないように見えます。ある者は恋人を捨て、あるものは命を投げてさえ彼女たちを選ぶ。少なくとも、いわゆる”普通の幸せ”以上のものが、そこにあるらしい。


あるいは彼らはワーカホリックなのでしょうか? そして「彼女たち」は仕事の道具でしかない? それはやはりちょっと変だ。仕事中毒者が仕事に傾倒した結果として、それに命をかけることになることはあるでしょうが、道具のために命をかけるのは、どちらかといえばフェティシズムの範疇です。しかし、それも何か違う気がする。彼らはその”道具”をこそ、なんとかしてあげたいと思っている。


現在のところ興味を惹くのは、担当官はおよそ独身男性であるらしい点。「彼女たち」はまさしく、彼らの恋人なのでしょうか? しかし、彼らはその可能性を一言の元に切り捨てます。曰く「我々は”兄弟”である」。つまり、”兄弟”は目的のためにあらゆる面で協力することはあっても、恋愛関係には陥らないはずです。が、これはあまりにも不自然。なぜなら彼らは兄弟ではないからです。当然のことながら。


ここはきわめて本質的な問題のように思えます。担当官たちは、どのような関係であれ、義体との関係を好きに構築=偽装して良い。けれど大前提として、恋愛関係だけは発生し得ないのだ、という設定を彼らは打ち立てている。そう、現在まで、彼らと彼女らの間に見える関係は、すべて「設定」です。そして、ではその本質は? と聞かれたとき、彼らは一斉に黙り込む。彼らは彼女らに本当は何を求めているのかを、明かそうとしません。


繰り返される「設定」によって隠された、その本当の関係とは何か。物語が進むにつれて、設定の綻びも進みます。第六巻ではついに、「恋人関係を偽装する」という、きわめてきわどい状況が現されました。彼らは①見せかけは恋人だが②実は”兄弟”であり③しかし本当は兄弟ではない――では一体、彼らは本当は何なのだ。何のために、そんなことをしている? 「設定」は、まさにそこのところを覆い隠すヴェール。


それでも文字と絵と文脈の隙間に、この物語の本当の姿がちらちらと見え隠れします。偽装は何かを隠すもの。そこには「何を」「何のために」という理由がある。そして何より、「誰が」その原因であるのかという。目にはいるのはまだ数多くの偽装ばかり。けれどアレッサンドロという視点の投入により、間違いなく”兄弟”の偽装は剥がされはじめました。


おやじ共の求めているもの。それは本当のところ、”兄弟”なんかではない。けれど今のところ、”兄弟”抜きには考えられない。そして彼らは今、それを見つめる心づもりはない。それはおやじ共が「何か」を強く恐れているからで、それを無意識以上にに自覚しているからこそ、彼らは”兄弟”が象徴する「設定」に頼る。彼らは何か、「関係」を強く求めている。けれど同時にそれを直視することを同じくらい恐れていて、延々と八つ当たりと言い訳を繰り返している…。


現在のところ、私がGUNSLINGER GIRLという物語に対して持っている感想は、以上のようなもの。この物語に出会った当初、私は本作を「設定だけがあって、ストーリーは装飾」だと感じました。今はむしろ、設定もストーリーも共に何かを隠すために、ただそれだけのために存在していると感じます。ひたすら隠すこと。それは同時に、隠された何かの確かな存在を、ひたすら現すことでもあります。