クラナドが長くてつまらないわけ。

クラナド攻略中の友人が「長くて嫌になる」という内容のメールを一日に三度程度送ってくれるのでこちらもたいがい嫌になる。確かにこのゲームを彼に勧めたのは私だが、その際、長いことは何度も告げたはずなのだ。今更うだうだと言われても困る。なにより彼が本当に言いたいところはこう--「つまらなくて嫌になる」--であって、けして文章量自体に辟易しているわけではないのである。いらないオブラートに包むあたりがどうにも嫌らしい。だいたいそれだって最初に念を押したはずなのだ。クラナドって作品(物語ではなく)は、構成にちょっとした難があるから、途中でくじけず頑張って読み終えてくれ、という具合に。
彼の評価はともかく、クラナドという作品の構成に問題があるというのは事実だ。というのもこの作品を貫く物語は、ひとまず10人近い人物のEDを見なければその実体を掴むことすらできないわけだが、この部分のシナリオには全くと言っていいほど整合性がない。おまけにそれら各々の物語自体がそれほど独創的なわけでも練り込まれているわけでもない(まるで過去のKEY作品のつぎはぎのようにも見える。これ自体が悪い、というつもりはさらさらないが)ために、せっかくたくさんのシナリオを抱えているわりには、個々のストーリーの印象が薄く、全体としてぼんやりとした感触だけが残る。
人には好き好きというものがあるので、普通はまず好みのヒロインのシナリオを読み、時間があればその他のシナリオも順次読んでみようとする。しかし、特に気に入っているわけではないキャラクターのシナリオを読むというのはあまり心躍る行為ではないから、そのまま投げ出してしまう場合も多い。この点、上手く構成された作品(例えば『君が望む永遠』)では、ヒロイン達に互いのシナリオで重要な役割の演じ合いをさせることで、芋づる式にプレーヤーの意欲を惹起し、「読みこぼし」を防ぐ手だてが取られる。しかしながら、残念なことに、クラナド第一章ではこれがあまり機能していない。
つまり各ヒロインごとのシナリオは、あっさりと2人(あるいは3人)の世界に没入し、他のキャラクターを世界から排除してしまう。これでは芋づる効果はさっぱり期待できず、それなのに「すべてのキャラクターの攻略」を義務づけられたプレーヤーは、いかにも作業的な気分になりかねない。この物語を無条件に面白いと思いこめる読者でない限り、攻略中一度くらい「俺は一体何をしているのだろうか」という疑問が浮かんだりするだろう。個人的にはことに勝平シナリオで、それが顕著だったように思う。
もちろん、こういった問題、というかあまりにパッとしないシナリオ達の存在意義は、最終的にその意味がはっきりする(つまりあくまでそれらはサブの要素であって、本筋を脅かすほど魅力的なそれであってはならない。あるいはそれらは何気ない街の住民達の何気ない人生の一ページであるからこそ、互いに関連性を持っているはずがない)ので、いちおう納得はできる。しかし今問題としているのは、それら真実にたどり着くまでの過程なのだ。いくら結末が素晴らしいからといって、途中がつまらない小説は普通ベストセラーにはならないし、何よりこのゲームの場合、それらの挿入的なシナリオの存在意義自体に疑問を感じざるを得ない。
というのもクラナドは本質的にはたった一本のお話であって、他の可能性が舞い込む可能性は最初から最後まで存在しないのである。ならばあのループ世界の物語は一体全体なんだったのだ? ということになりはしないのか。理屈(というより道徳的展開の必要性かもしれないが)で言えばそれこそ、すべて勝平ルートの様なことになる必要があったはずなのだ。なぜなら主人公には既に宿命付けられた女性がいて、彼はゲームが始まった瞬間から、彼女一人のために、かりそめの命を与えられてまで動いているのだから。もちろんそれが彼女の願いである「(とりあえず)すべての人を幸せに」という目的のためだ、と言い逃れることもできるだろう。しかしそれだとしても、結局、あれらすべてがつかの間の夢物語だというのでは、あまりに空しいではないか。

以下参考

クラナド 並列エピソードの悲劇  04.5/12 id:hajic:20040512#p1
 攻略サイトを参考にしまくって読み終えた。なるほど、中盤で感じたシナリオ間の統合性のなさには、きちんとした理由があったわけ。ひとたび絶望に飲み込まれた主人公はある種のループの中に取り込まれ、幾度も町の意志を代行することで彼が集めた多くの幸せの力が、最終的な奇跡へと物語を収束させる…。『AIR』に比べて圧倒的にテーマ理解が容易で、『KANON』に比べ断然洗練された構造を持っている等、進歩を感じさせて良い。なにより読了後の後味が爽やかなのは非常に評価されるべきだ。

 が。序盤から中盤以降までを占める例のループシナリオ、これら同士は一見して相互の関連性が判然としないので、ここを通り過ぎる過程が一番憂鬱なものではあった。予備知識を持って当たらない限り、よほど読みの鋭い読者でない限り、様々な過去作品の寄せ集めと受け止めかねない。願わくばまっさきに渚とのfateを描き、また幻想世界という種明かしの描写によって、ループの持つ意味を示唆して欲しかった。

 結局のところ、この作品においてもまことのヒロインはただ一人。『Fate』もそうだったが、複数ヒロインを登場させるノベルゲーム形式というものは近頃「物語全体の統一性」と「複数のヒロイン存在」の間に発生する、致命的な矛盾に直面しているのではないか。つまり「誰も彼も」が認められず、また「全ての結果の同時性」が説得力ある文章として論述できないにも関わらず、ノベルゲームというメディア自体はそれら表現を可能にしてきたために、いざ作品全体を総括し要約しようとした場合、多くのサブシナリオの存在性が消滅する。

 かつてギャルゲの主流であった(今でも数の上では主流である)『ときメモ』的に個々のシナリオを完全に独立したパラレルワールドとして認識すべき作品たちは、それ故にそういった悩みを抱えずにすんだ。しかし全てのシナリオを読んでこそ物語の意味が把握できるような、進歩し複雑なノベルゲームにおいては、個々のシナリオを「パラレルワールド」として一言で片づけるということは難しい。

 ゆえにそれらのシナリオは本筋のなかに、それぞれ並行的なストーリーとして(括弧)入りで挿入されるべき低次の存在とされ、結果複数ヒロイン制の意義を減少させてしまう。彼女らはあくまで本命の引き立て役でしかなく、プレイヤー側の選択権は、あるように見えて実はない。これがノベルゲームという表現形態の持つ優位性に与えるダメージはかなり深刻なのではないか。つまりそれは紙メディアに印刷された小説となんら変わらないのである。

 ではどうすれば、このクリティカルな性格を打破することができるのか。複数の物語を同時に語ることができない以上、すべての関係を同列に表記するためには、一つの物語の中で全ての関連性を語りきるしかない。つまりストーリーは一つしか存在せず、すべてのヒロインは同時に主人公と結ばれる。もちろん現実の社会規範に則る限りこの状況は起こりえないので、この手段を利用する場合主人公の地位は王様に類するものでなければならない(好例は『うたわれるもの』)。…と言っても、やはりストーリーが一つしかない以上これは完全に小説であって、ノベルゲームである必要は一切ない。

 ここで注目すべきなのは『月姫』の構造である。彼の傑作の美点の一つとして挙げられるのはそのほぼ完璧なまでの構造の合理的単純性だが、その真のすさまじさは「家から出て家に帰る」という古典的なテーマを重層的に構成する複数のシナリオを、すべてが完結した「先生との野原」という世界で覆うことによって、それぞれ独立させながら同時に統合するという荒技を見せている点である。つまり『月姫』は根本的に志貴自身の物語であるとはっきり描くことで、物語が内包するヒロイン達、そして彼女たちとの個々のエピソードの物語的序列を下層にシフトさせ、(二次的に)並列なものとしてそれらの表面的衝突を防ぐことを可能にしたのだ。

 『月姫』において、物語は内部での発展性を保持しながら、外側において完全に閉じている。「魔法使い」であるところの青崎青子と志貴が出会い、別れた草原はすなわち世界の外側であって、そこへ至った彼=読者はすべての事象を同時に認識し、受容することが可能となった。つまりこの構造上では、『月姫』におけるすべてのエピソードは並列であり、重層的であり、そして単一である。複数のヒロインを抱えるノベルゲームの弱点を見事に解消した、奈須きのこ氏によるこの画期的なノベルゲーム的著述の文法は、このクラナドという作品においても大いに参考とされるべきだったのではないか。

CLANNAD

などと書いていたら続きのメールが来た。「春原はコントとしては面白いんだけどあまりに存在が嘘くさい」なんだそうな。問いつめることにしよう。