あらすじという鎮魂歌


■僕はあらすじの人
なのかなあと最近思う。まわりの人とはどうもスタンスが違うようだ。
あらすじというものは面白い。物語の概略を記すものだから、自然それは原文より短くなる。
一言一句残さず書き写してはあらすじにならない。


その過程では当然、情報の取捨が行われる。あるストーリーラインを想定して、いらないと思った部分は捨ててしまう。
しかし当然ながら、捨てられた部分もまた、その作品を構成するために著者が物語に配置した要素である。
あらすじはそれらの要素と共に、それらが語っていたあらゆる他の側面を切り捨てる。
つまり、あらすじとして抜き出されたストーリーは、原文の物語が同時に孕む多くのあらすじのうちの、ある側面でしかない。
物語とあらすじ、あるいはストーリーは、言葉面以上に別ものだ。


■案外、学園系ノベルゲームは
「あらすじ」と「物語」の分かりやすい対比かもしれない。
あるヒロインを選んだ瞬間、基本的に他の全てのヒロインは、(そんなヒロインたちがそれぞれ持つ、それぞれのストーリーもろとも)、選ばれたストーリーから排除される。
これはあらすじの抽出作業そのものではなかろうか。


つまり、その物語は、他にも一杯あらすじを持っているのだ。
偶然、例えば僕という視点が、かかるあらすじを選択しただけのことで。
「ストーリー、あるいはあらすじが物語の一側面でしかない」と僕がいうのは、例えばこの意味である。
だから、厳密な意味では、それは物語の概略ではない。



(別の観点から見るなら、本当にあらすじが書けてしまうようなお話というのは、実に無駄ばかりのお話ということになる。他に何もないのだとしたら、わざわざ原文を読む必要はどこにもない。むしろあらすじの中にあらすじを探す方がまだしも建設的だ。あらすじを読んだらつまらなくなってしまうようなお話は元からつまらないのではないかと僕が思うわけは、結局のところここにある。)



■だとしても、僕はあらすじを書くのが好きだ。
「物語の可能性を一側面に固定したがる悪い趣味がある」とも言われるけれど、でも、それなりに理由はある。

あらすじを書くことは、結局のところ、物語のうちに目に見える判断の軸を通すことであり、そのことは自分が否定した側面の存在を強く意識させる。

つまり、自分はどうしてこの部分を選んだのかという問いは、どうしてあれらの部分を選ばなかったのかという疑問といつも表裏だ。

そんな意味たちを、文字通り切り捨てたからには、せめて自分は自分の行為に責任を持ちたい。

そしておそらく、物語を読んだあと、意識するかしないかは別にして、あらゆる人の認識上にあるストーリーとは、あらすじである。

人間の思考が言葉によって成り立っているとするならば、物語のストーリーが現実的にはあらすじとしてしか記述できない以上、このことは避けられない。


■ストーリーとは
その物語が持つあらゆる他の要素の否定の上に浮かび上がったあらすじである。

結末と読者が信じるものは、選ばれなかった全ての要素の死骸の上に突き立てられた墓標なのだ。

だからこそ僕は、自分の選んだあらすじに、出来る限り素敵な意味を持って欲しいといつも願う。
読書が大量殺戮に他ならないのだとしたら、僕にできることはそれくらいしかない。


■選ばれた要素は
選ばれなかった要素との対比のうちにこそ意味を与えられた。

残された要素に素敵な意味があるとするならば、その意味を与えて去った要素たちもまた、意味の裏面として、あらすじの裏側に残り得るだろう。

だからもし、彼らが偉大かどうか保証はなくても、そしてもし、彼らの退場を誰も意識しなかったとしても、僕は彼らに心からの感謝と、別れの言葉をおくりたい。


あらすじの人というのは、そんな感じの話である。
おそらく理解はされまい。


正しくもあるまい。許されもしまい。