幸せなバッドエンド

今となっては、それを語るために必ずしもエロゲである必要があるかどうかは怪しいですが、かつてエロゲが突き破った、エロゲだけが突き破り得た限界は確かにあったと思います。
今やこの手の作品はエロシーンさえ除けばそのままコンシューマで展開しても問題がない。新しい意味を告げるものとしてのエロゲの役割は終わったのかもしれません。
でも実際のところ、それがこれだけ当たり前のものになったということ、それそのものが、エロゲが果たした偉大な貢献なのではないでしょうか。
エロゲはオカズだった。そのオカズのために生まれた何かが、記号の配列の中に別の意味を見出すもの、あるいは物語として発展し、またそのメディアを完成に導いた、選択肢の集積と結論の総合という手法は、図らずも弁証法的な性格を強く持ち、意外なほどに思索的で追求的な側面をそこに生み出した。
エロゲを遊ぶ/遊ばないの対立から始まり、どの作品を選ぶかという選択を通して、どの物語の、どの結末の先に自分の答えを求めるかという追求は、エロゲというジャンルが選び、育んだデジタルノベルという舞台の上で、あるいは他のあらゆる場所で、今日もまたその可能性を増やしています。
言い換えるなら、エロゲが与えてくれたもの、それはおそらく、あらゆる事象に選択可能な、けれど相関する物語としての意味を与え、許容し、総合し、外側から包括する視座、そしてそのずっと先にある、手の届かない結末への微かな予感と、気付くか気付かないかの期待――詰まるところ、それらに勇気づけられた、一種の“幸せな動機”のような気がするのです。