少女漫画とレイヤーとADVゲーム

ADVゲームにありがちなパラレルワールドを統合的に一つの作品として認識しようと試みる場合、それらを一種のレイヤーとして理解する、という試みは既に当たり前のことなのでしょうか。別に多色刷り版画でも何でも良いのですが、もしそうならば、以下だらだら書いた文面は無意味です。


少女漫画を読んでいると、一ページに詰め込まれた情報密度に驚くことがある。例えば『瞬きもせず』なんかだと、下手をすればたった10ページの間にヒロインは彼氏と喧嘩して泣いて和解しかけて物言いがついて(邪魔がはいって)また泣いて反省して和解してキスする、と言った状態が起こりかねない。多分そんなことはなかったと思うけれど、かなりそれに近かった。

一方少年マンガの一ページの情報密度の薄さときたらこれまた驚くべきものがある。例えば『ドラゴンボールZ』などだと冒頭あおり文句で前回からの引き続きの戦闘シーンか何かがおっぱじまり、そのままキャラクターが豪快に飛んでいるだけで一週分の丸々10ページほどが終わってしまう状況を起こしかねない。多分そんなことはなかったと思うけれど、かなりそれに近かった。

良し悪しはとりあえず脇に置くことにして、双方ほぼ同数のページを割きながら、どうしてここまで表現された物語の密度に差がでるのか、について少し考えてみると、少女漫画においては、コマの外部においてしばしば物語が展開され、しかもそれは大体の場合、コマの内部の語る物語以上に、むしろ圧倒的に重要な告白であることが多いことに気付く。つまりあの時々出てくる、ヒロインの泣き顔のアップみたいなやつである。


一見単純に、コマの集積によってストーリーが構成されているように見えながら、実はコマの流れを無視したキャラクター画像が物語に深刻にオーバーラップしていることが、少女漫画の得意とするキャラクターの感情表現に強い影響を与えていることは疑う余地はないし、今更言うことでもないと思うけれど、これはよく考えてみると実際かなり凄い。というのも、その技術によって漫画家は、その物語の意味的な奥行きの存在を、ごく自然に、視覚的に表現してしまえる。

コマで表現される物語とは「事実」の累積だと言える。つまり、悟空がギョバーーンと飛ぶのも、かよ子が紺野にイライラハラハラするのも、結局のところ「そういうことがありました」という事実の時系列にそった描写でしかない。しかし、コマ割りを無視したキャラクターの告白は、そのコマによって語られる物語の「事実」から文字通り飛び出すことで、その事実――コマ、目に見える物語――が持つ「意味」、あるいは「意図」を表現する。

もちろん、この告白もまた絵として表現されたものに過ぎないのだから、結局のところそれもまた「事実」である。しかし「コマ外部に展開される物語の告げる事実」は、コマ内部に展開される物語のそれと同一の作品の上で展開されながら、明らかに(”目に見えて”)異なった次元で、より高度に存在する。言い換えるなら、それぞれの物語は、別々に在りながら、階層を持って重なって、一つのものとして現されている。この意味で、冒頭に取り上げたような少女漫画において、その作品を緻密に構成しているのは、次元の違う事実である複数の物語のレイヤーと、それが必然的に生み出す「意味的な奥行き」なのである。


……ここまで書いた。ここから展開してADVに話を振るつもりでしたが力尽き。

■つまり、月姫とかシンフォニック=レインとか、そういう優秀なADVゲームの物語は、そのそれぞれのルートの中で、そしてそれらルートをクリアしていくことで、「次元の違う事実」として読者のうちにどんどん累積され得る(されないかもしれない)、この手の大量のレイヤーによって構成されていて、しかもそれが寸分のずれなく”一つの作品”として綺麗に重なっているからこそ、傑作なのでしょう。ということが書きたかったのでした。(一体何をもって「綺麗に重なっている」「重なっていない」と私は判断しているのか、については考察が必要)

■そしてここからさらにシンフォニック=レインをべた褒めするのであれば、それにおいて最後のレイヤー=最後の物語=事実の限界は、あえて描かれていないわけです(hajic説)。だからこそ、シンフォニック=レインという作品の持つレイヤーの厚み、すなわち「意味の奥行き」は、理論上無限に存在し得るのです、凄いぜ。とかそんな感じでございました。おわり