やさしい嘘の神、あるいはペトロのパンツについて

 教皇。イエスの抽象的身体、聖なる普遍の教会、世界10億人を統べるカトリック組織の長であり、イエスから天国の鍵を与えられた地上における神の代理人である、ローマ司教座の主。その初代はキリスト直伝の弟子、新約聖書でも大活躍するペトロとされている。聖書を読んだことのない人のために、彼の人となりを的確に表す記述を紹介したい。

エス先生 「教室のベランダにパンツ落し物があったそーでーす。誰か心当たりのある子いませんかー。」
ペテロ 「(あ、昨日漏らした時の手洗いした後、干したままだった。。。)」
エス先生 「いないのー? えーっとあれ? あれ良く見ると名前かいてあるね、『ぺてろ』。。。ペテロくん、君のじゃないのー?」
ペテロ 「何言ってるんですか。ボクんじゃありません」(その時、学校で飼っている鶏が鳴いた)
エス先生 「ホントー?だって名前が書いてあるよ。」
ペテロ 「知りません。だってボクの本名シモンだし」
エス先生 「でもペテロなんてあだ名、他にいないし。てゆーか僕がつけたんだったよね。」
ペテロ 「だから知りませんて。(デリカシーの無い先生だなぁ)」
その時また鶏が鳴いた。つられてペトロも泣いた。

 もとい

 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」。そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。


 イエスが捕縛され、いよいよ死刑の判決を待つ時点での一幕である。イエスに付き従った信者たちはもちろん、使徒たちさえも逃げ散っており、ペトロもまた類に洩れなかった。群衆に紛れて主の身を案じていた彼だが、どこにでもいる鬱陶しい目敏いおばはんに見つかり、自分も捕まりたくないがために嘘を繰り返す。そしてそのことを、イエスは事前に予告していたのだった。*1


 


 結局のところ、キリスト教の描く人間像って、「必然的に間違う生き物」なんですね。どんなに気をつけても絶対何かやらかしちゃって、もうこればっかりはどうしようもない。

 旧約の時代の人は生真面目だった、あるいは人間の能力を過信していたので、ずっとごめんなさい(神さま許して! 次はもっとうまくやれる、そんな気がするのよ!)と言い続けたわけですが、新約のおかげで間違ったっていいさ、にんげんだものと開き直ることができるようになった。これは大きい。間違うことを前提にして、現実的な対策を練ることができる。キリスト教文化の利点だと思います。休みもロクに取らせず「ヒューマンエラーは無くせる!」と怒鳴る重役陣にも聞かせたい。

 それはともかく、この視点、つまり「必ず間違う人」の視点に立つと、キリスト教、そしてカトリック教会の歴史というものは、また新たな顔を見せてくれるのではないでしょうか。十字軍だの魔女狩りだの、そりゃあもうあいつら間違ってばっかりですよ。ある意味、キリスト教の裏教義の理想的な具現者ですね。

 ヨーロッパ人が古来、真実を探し求めていたのも、この辺りに理由があったのだろうと思われます。誰にだって悔いの尽きない過ちの一つや二つある。だからこそ、「絶対間違いのないこと」を彼らはずっと探していた。キリスト教の神はそんな心のひび割れにスルッと入り込んで、ナデナデしてくれた。

 そんなわけで、僕にはどうにも、キリスト教の神が、巷で言われるような「真実の神」だとは思えません。むしろ、その反対ではないか。死んだ男が生き返ったという聖書の記述、またその証明のために理論を積み上げた神学の結末は、如実にキリスト教の性格を示しているように感じますが・・・・・・どうでしょう。

*1:すごく面白いので、マタイによる福音書、26章の31節以降を読んでみてください。