信仰は理性的であれ(健全な精神よ健全な肉体にやどれかし的な意味で)

 先日の『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』記事がそれなりに楽しんで貰えたようなので、言葉足らずだった部分を付け足しながら、キリスト教、特に僕がいくらかでも学んだことのあるカトリックの考え方を元にして、僕なりに補足してみよう。

 日本では一般に理性と宗教は相容れないものだと考えられている。科学と宗教と言い換えてもいい。信仰はあり得ないものをあえて信じる理不尽かつ非科学的な行為で、理性とかちょっとないわ。そのあたりが日本人にとって、キリスト教を理解する最大の枷だ。

 強弁してしまおう。彼らにとって理性的とは、まず論理的合理的な筋道を立てて思考することであり、それが事実であるか否かの判断は二の次となる。たとえ「死んだ男が生き返る」というヨタ話でも、それが論理的合理的に説明できれば、それは理性的なのだ。「神さまは存在する」という仮説のもとに、2000年かけて積み上げられた屁理屈の山がカトリック神学である。

 たとえば1+1の答えは誰が考えてみても明らかであるように、数字はそれを正しく用いると間違いのない普遍の真理を導く。人間はみな人それぞれなのに、誰が考えても答えが同じになるのは不思議だ。だからこれは人間に等しく理性が備わっている証拠であり、こんなカンペキに普遍的な能力は、カンペキに理性的な神の力のおこぼれに他ならない(と、彼らは考えた)。

 キリスト教の神はカンペキにカンペキなので、なんでもカンペキなのだが、たとえばカンペキに理性的である以上、その存在自体もカンペキに論理的で合理的なやつのはずである。存在がカンペキに論理的で合理的である以上、これは論理的合理的に証明できるはずだ、できなくてはならぬ(とキリスト教徒たちは考えた)。なぜなら信仰は真実でなければならず、真実は普遍的でなければならず、普遍的なものは理性的でなければならない。

 そんなわけで中世ヨーロッパのカトリック神学者たちは、いわゆるスコラ哲学なのだが、神の存在証明というものに熱中する。ギリシア由来の論理学を駆使し、数百年かけて、合理的かつ理性的に神の存在を証明しようとしたのだ。結果だけを述べると、これはうまくいかなかった。大失敗したと言ってもいい。信仰の炎に鍛えられた論理の刃、理性の力が、なんたること、合理的かつ論理的に神のカンペキな必然性を否定してしまう。たぶん、歴史上最大の自爆だと思う。

 神が否定されたのではなく、神の必然性が否定されたに過ぎないのだけれど、そんなこと大多数の人にとってはどうでもよかった。それまで自然の仕組みの素晴らしさを通じて神の偉大さとその存在の必然性を叫んでいた(「ほら、世界はこんなに素晴らしい。こんな見事なもの、神さまがいなきゃ存在できるはずがないよね」)あらゆる学問の頭の上から、カンペキな神は姿を消した。結果、方法論と知識が残った。つまり近代科学の興りである。

 しかし歴史というものは皮肉なものである。信仰を科学的に支える努力をしたヨーロッパが、教会の教義に離反する近代の科学を生みだし、その後の世界の運命を決めたのである。つまり近代に入って、信仰によってよりも、科学技術による世界支配が、ヨーロッパで実現することになったのである。実際、信仰を科学で支えようとすることなど、現代人は笑止の沙汰と思うだろう。しかしこの努力(エネルギーの集中)がなければ、ヨーロッパ科学は生まれなかったかもしれないのである。近代科学を、教会からの離反としてのみ見る人には、教会を支えた神学が、実は科学性を追求したものであり、それが近代科学を生み出したという側面を見落としてしまうだろう。
中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)

 言うまでもなく、自らの教えにとって都合の悪い様々な考え方の持ち主に対し、カトリック教会がしばしば「最大の寛容の心をもって無血の死を」(つまり火あぶり)与えてきたことは事実だし、十字軍で略奪をするだの、植民地獲得の一環として布教をするだの、贖宥状(免罪符)をばらまくだの、ロクでもないことをしていたことも事実で、そうした行為を正当化するつもりは全くない。ただ、連中のやっていたことは、いちいち(連中なりに)理性的だったことも付け加えておきたい。

 結局何が言いたいかと言えば、キリスト教は巷で考えられているほど非理性的な宗教ではないということなのだ。ただ一点、大前提が極めて胡散臭いというだけで。大部分の、少なくとも教育を受けたキリスト教徒もちゃんと分かっていると思う。例えばローマ教会は前世紀、進化論について「非常にありそうな仮説だ」と声明を出している。もちろん、「神の計画の見事さを素晴らしく理性的に説明できる」から、という注釈は欠かさないのだけれど。(笑)