「この我のものとなれ、勇者よ」に思う

 魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」(訳あって目次に直リンク)
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 創作に出てくる「一神教を奉じる宗教団体」というのがしばしば狂信的に描かれるのはちょっと困った状態だと思う。もうちょっとマシな扱いもあって良いのではないか。

 いかにも現ローマ教皇なパルパティン議長が悪役だったように、この手のモデルはしばしばローマ教会だろう。歴史の時間に十字軍だの魔女狩りだとカトリック教会の負の側面ばかり習う結果なのだろうか。連中は傾向的に邪悪であり、イエズス会の日本への布教も植民地化を目的としたもの、と言い切る人も多い。否定はできないにしても、断言するのも結構乱暴な話だと思うのだ。

 さらに過激な「宗教=貧者の麻薬」的発想も、意識しているかどうかは別にして、ある種の思想の影響下にあるわけで、必ずしも健全で公平な思考状態だとは考えにくい。昔の人は無学で扇動されやすく迷信的だったからと見下す向きもあるが、それを言うなら科学知識で武装した現代人もたいがいのレベルでマスメディアに振り回されている。疑似科学みたいなのもますます盛んだ。

 宗教を、この文脈であればカトリックやローマ教会のことなのだが、低く見すぎるのはちょっとなあ・・・、という話である。例えば冒頭の作品では、経済学を学んだ魔王がその知識と方法論で中世然とした社会を効率的に改造していくわけだが、経済学という学問はある日突然降って湧いたわけではない。しかし魔王の武器とその武器のルーツは、「学んだ」のひと言で切り離されてしまう。

 頑固な迷妄の世界に対して切り込む、降って湧いた科学的発想。これは特に日本人のせいとばかりは言えない。というのもヨーロッパ自体が「中世の闇を近代理性が照らした」的な解釈をしていた(ことによると今でも)わけで、彼らが据えた「中世思想と近代思想の間の断絶」という設定を学んだ日本が、その影響下に置かれることはまあ仕方ないのだが。

 実際には、これは哲学史を習ったことがある人であれば明らかだと思うけれど、思想は文脈を持っている。古代から中世はもちろん、中世から近代にかけても同じことだった。それまでの議論を下敷きにした上で、その不備を補う、別の解釈を与える、あるいは否定する形で思想の大系は築かれて来た。ある日突然、偶然に全く別の新しい思想が飛んでくるわけではない。

 その歴史の中で、カトリックが果たした役割は、実に凄まじいものがある。論理的思考の手段を発展させ、ついには自壊に及んだのも実にカトリック(少なくともその影響の内外にあった人々)であった。神学自体は結局自らの神の存在証明に至らなかったものの、ある意味、カトリックの間違いのおかげで近代科学が立ち上がったようなものだ。

 もう少しキリスト教について学ぶべき時期に来ていると思う。僕らを囲む様々な存在は、意外なほどキリスト教にその根を持っていて、もちろん、作中の経済学だってキリスト教と無関係ではない。いつまでも狂信的な宗教団体と戦うプロットばかり流行るわけでもないだろうし、いっそ真面目に勉強してみるのも面白いのでは。その意味では、この作品のヒロインの一人が修道会に所属しているという設定は興味深かった。プロテスタント的代替物に甘んじず、あと一歩踏み込んで貰いたかったのも事実ではあるけれど。あ、お話自体はすごいエンターテイメントなのでお勧め。


参考
信仰は理性的であれ(当記事の補足)
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20100511/p1
過去は間違っていて今が正しいと誰が決めた(さらに補足)
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20100521/p1
かんたんキリスト教のしくみ(新旧聖書を超かんたんに説明)
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20100526/p1
あるいはペトロのパンツについて(教皇について)
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20100530/p1
第七日 深夜課(理屈の実例)
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20100525/p1
Recognition of more than *one* hypothesis
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20081119/p1
キリスト教アレルギー患者にありがちな症状
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20090102/p2

薔薇の名前〈上〉

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