今年の復活祭は四月八日。
キリスト教の奇跡の核心であるくせに、聖書の復活の周辺の記述は実に危うい。なにせどの福音書をとってみても肝心の復活のシーンが描かれていないのだ。復活したしたと言うものの、本当に彼が復活したのかは誰にも分からない。
初期教会が教義確定のために聖典聖伝から不都合な記述を排除したことは有名だが、逆に言えば、彼らは最高に都合の良い記述ばかり聖書の中に集めたにもかかわらず、「そのシーン」の記述は最後まで発見できなかったのである。
意味するところは単純だ。キリストは復活なんかしなかった。ユダに裏切られ、使徒たちにも裏切られ、惨めに、苦しみながら、十字架の上で死んだ。「我が神、我が神、どうして私を見捨てたもうたのか」と恨み言を口にしながら*1。
聖書というテクストの面白いところはここにある。それを現実的に読むと、教会にとって、教義の正当性にとって、不都合な箇所ばかりが見つかる*2。それらに気付いていないとするなら、初期教会の編纂者たちはよっぽど馬鹿だったとしか思えない。
嘘でも何でも良いから、キリストが墓からゴソゴソ出てくるシーンを書いておけば良かったのだ。むしろ書いておくべきだったのだ。死んだ人が復活することはないのだから、奇跡が起こったと叫ぶなら、せめてそこだけは確かにしておくべきだった*3。
猿でもわかる理屈である。いくらペテロがアホでも、パオロが気付かなかったとは思えない。マテオが躊躇っても、ルカが恐れても、四福音書が出そろうまでにはキリストの死後100年近くが経過している。ヨハネが、初期教会の司祭たちが捏造することは容易だったはずだ。
ならば、どうしてそうしなかったのか。これこそが聖書という物語の持つ最大の謎の一つであり、それが真のミステリーである理由の一つだと僕は思う。そこには何かしらの意図が働いているはずだ。そう思って読むことではじめて、聖書は大きくその姿を変える。
「教会がアホだった」と決め付けることは容易い。あるいはダビンチコードばりに「教会内部の抗争が云々」としてしまうことも同じだろう。言うなれば「キリストは復活なんかしなかった」という事実を文字通りに受けとる手はある。
ただ僕は思う。ご説ごもっとも、おそらくキリストは復活なぞしなかっただろう。教会は陰謀の渦だろう。しかし、そんなことは猿でもわかるのだ。なのに、どうして2000年もそれが信じられているのかについて、そんな説明はちっとも答えを出せないんじゃないのかと。
「キリストは復活しなかったけれど、僕らは彼が復活したことにした」。
初期教会の人間は、それこそを語りたかったのではないか。あまりにもぞんざいな復活後の展開を見ると、僕にはそう思えてならない。それは何のために? 誰が見ても嘘だって思えることを、あえて嘘だとわかるように語るその訳は?
これを考えることが、おそらく普遍的な意味で、「信仰」という言葉の本当の姿なのではないかと、僕は信じている。
聖書は面白い。キリスト教は本当に面白い。そして今年も僕は、洗礼を受けられないだろう。