シンフォニック=レイン 全ルート俯瞰

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版

 発売から4年、現段階での個人的な認識を俯瞰する。当然ネタバレ。
Da Capo
 「初めから」を意味するイタリア語。Da(from) Capo(head)。「この言葉が指示された部分まで演奏の後、曲頭に戻る」という、常識的な音楽用語(D.C.)でもある。ゲーム開始時点では表示されず、トルタ・リセ・ファルの3シナリオを終了後、Al Fineと同時にシナリオ選択場面に現れる(つまり、プレイヤーは「Da Capo」あるいは「Al Fine」の何れかのルートを選んでゲームを開始できるようになる)。時に強弱の変化はあるものの、街には常に雨が降り続けている。

・トルタ
 数年前の事故により、彼女の姉アルはクリスと共に重傷を負う。アルはそのまま意識不明となり、クリスはまもなく退院が叶ったが、事故の記憶だけを失っていた。彼に精神的なショックを与えることを避けるため、そして姉に向けられていた彼の気持ちを奪うため、トルタはアルとして振る舞うことを決意する。

GOOD
トルタは姉の恋人であるクリスの想いを獲得するものの、彼の見ているものを、そして自身の行為(裏切り)への赦しを信じることができない。

BAD
クリスはトルタの偽装に気づかず、アル(=トルタ)との結末を迎える。

・リセ
 一人旧校舎で歌い続ける少女に心惹かれたクリスは、彼女とアンサンブルを重ねるうちに、彼女の秘密を知る。リセはフォルテール奏者の家に生まれ、演奏能力を持ちながら、その道を拒んでおり、そのために彼女の父親と彼女の間には極度の緊迫感が存在していた。

GOOD
駆け落ちする2人だが、トルタが現れて水を差す。「贖罪のつもりなの?」

BAD
リセを引き受ける能力がないことを実感したクリスは再起を誓う。

・ファル
 優秀で人望に満ちた元生徒会長の正体は、歌の能力を見込まれて孤児院から引き取られた少女だった。人間関係とは、極言すれば全て自己満足のための取引関係であると語るファルは、それでも私と共に歩むか、とクリスに問う。

GOOD
ファルの言葉を受け容れ、彼女に愛される道具として生きることを選ぶクリス。

BAD
その考えは理解できないし、したくない、としてファルと決別するクリス。

・フォーニ
 AL Fineを終わらせた後にのみ現れる、特殊なシナリオ。クリスの下宿に存在し、クリスの一番のアンサンブルの相手であった、自称歌の妖精・フォーニ。彼女がアルの魂、あるいは映し身であることが仄めかされる。クリスは卒業演奏のパートナーとして彼女を選び、誰にも聞こえなかったはずのフォーニの歌声が満場を涌かせる。アルは奇跡的に目を覚まし、クリスと2人で暮らす。
 一般に「グランドエンド」とも呼ばれる程の、待望の結末であるにもかかわらず、それが何故かDa Capo内に存在すること、そして物語途中からトルタの姿が見えなくなることが、様々な不満や憶測を呼んだ。

クリスはアルとの結末を迎える・・・。


Al Fine
 Da Capo3シナリオ終了後に現れる、トルタ視点のルート。Al(to the) Fine(End)。本当はPiovaには雨など降っていないこと、彼女がどのようにクリスを欺いてきたかということ、そしてアルはどうなっているのかということ、物語の発端がつまびらかに語られる。アル・フィーネという名前は容易にトルタの姉のシナリオを連想させるが、それに反して、ただ1カ所彼女の死が明確に語られるルートでもある。

 al fineとして「終わりまで」を意味する音楽用語であるとする意見が主流だが、文法的には「結末において」「その意図へ」という意味も存在する。いずれにせよ、このルートが、シンフォニック=レインという物語における最終章として位置付けられていることは疑う余地がない。

 街にはほとんど雨が降らず、フォーニの姿も全く見えない。

BAD
Da Capoトルタルートと同じ展開。クリスの愛を確かめるため、アルの姿で彼に会いに行ったトルタは、彼が2人を見分けられなかったことに失望し、何もかもを諦める。

GOOD
クリスの部屋を訪れ、彼に全ての事実を告げるトルタ。想いを確かめ合った2人は急ぎ故郷の街へ戻るも、アルが昨日世を去ったことを知る。


シンフォニック=レイン DVD通常版

シンフォニック=レイン DVD通常版

 とても面白く思うのは、本作のメインヒロインの片割れであり、それどころか主人公の恋人として設定されている少女アリエッタが、その実ほとんど作中に登場しない事実、そして、それにも関わらず、僕ら読者が、このゲームの中に、アリエッタという少女の姿をありありと見いだしてしまうことです。

 欲望と罪悪感の間で演じ続けられたトルタの偽装は、不思議なことに、完全な一人の存在者としてのアルを読者の印象に残しました。どんな少女か見たことがないけれど、どんな少女か知ってる気にさせた。だからこそ、グランドエンドでのアルの復活は、多くの読者によって必然として受け容れられ、彼女がアルであることを誰も疑わない。

 実際アルがどんな人物だったのかを知る手段は、DPC『妖精の本』の他にありません。そして、そこに描かれる姿は衝撃的です。というのも、彼女の思考方法、冷静で辛口な自他の分析は、まるきり僕らの知るトルタと同じ。「仕方ないなあ」とぽわわんな、あの姿からは想像もできない、アイロニカルな独白。実は彼女もまた、無害でありふれた幼なじみなんかではなかったようです。

 アル・フィーネにおいてトルタはアルを墓に葬り、フォーニエンドにおいてアルはトルタを物語的に葬ります。2人が対立すると考える限り、この物語はどこまで行っても皮肉で残酷なまま。それならむしろ、アルの死亡を既定の事実として、その結末がいかに必然となりうるか、その因果の流れを摂理として考えた方が、まだ救いがあるのではないか、なんて思ったこともありました。

 自然界には完全に同じものは二つとしてなく、つまり「見分けがつかないのは、同じように見える二つのものの間にある差違である」というのはライプニッツの言。物理学が発達して、ふたつの電子が互いに区別できないことが分かっても、そっくりな双子の間にフォーニを配置したこの物語の問いかけるものは、読者の心を強く揺さぶることを止めません。