おへんじ

シンフォニック=レイン DVD通常版

がらくたにっき様 本日付け
http://d.hatena.ne.jp/garakuta4000/20051025

こんにちは。トラックバックありがとうございます。
あまりに長文になってしまったのでこちらに直接記載しました。
さて

①それはなぜ、「ゲームクリア」と叫ばれないのか
②そこではなぜ、他のエンドと同様、「星空を飛ぶ光」が描かれたのか
③それはなぜ、「da capo」内に存在するのか
④なぜそこだけで、アルが甦った――すなわち「奇跡」が起こったのか

実際のところ、①は③とまったく同じ問題なのです。それはつまり、「どうしてフォーニエンドこそが"al fine"として語られなかったのか?」という、本質的な問題です。仰る通り、フォーニエンドが”本当に幸せな最後の結末”であるとしたら、それこそが”al fine”として語られるのが普通、というか当然でしょう? でもそうではなかった。どういうわけか"da capo"だった。それはなぜ? という疑問は、愛蔵版においても、いまだに残っている。


また②の問題なのですが、実は私は愛蔵版をまだクリアしていないのですが、愛蔵版フォーニエンドにおいては「夜空を飛ぶフォーニ」は描かれなかったのでしょうか。もしそうだとするならば、私の仮説は愛蔵版解釈にあたっては修正が必要になります。というのも私は結局のところ「夜空を飛ぶ光(通常版)=フォーニそのもの(愛蔵版により証明されました)=アルの魂」であると主張しているわけで、フォーニエンドでフォーニが夜空を飛ばないと、この推論は破綻をきたす恐れがあるのです。


言い換えるなら、私の仮説は「フォーニエンドにおいても復活はない = アルは死んでいる。だからこそアルの魂としてのフォーニは、フォーニエンドにおいても天国かなにかへと旅立つ姿(夜空を飛ぶシーンですね)として描かれた」と主張するものです。もしも愛蔵版において、その夜空のシーンがカットされているとするなら、私のこの解釈は、大幅に修正される必要があります。つまり、「アルが本当に甦った」あるいは「実はフォーニとアルの魂は別のものであった」という解釈が要求されるでしょう。


>これが仮に本当だとすれば、あんまりと言えばあんまりな話です…
実際、私はシンフォニック=レインを「あんまりといえばあんまりな話だ」と認識しています。これは本当に、とても悲しい物語です。人が死ぬのは摂理であって、どうすることもできません。しかしそれでも、彼女の死こそが、彼女の本当の思いを明らかにし、そしてその本当の願いが、皮肉なことに、彼女の死によってのみ叶えられたとしたら、彼女の死には本当に素晴らしい意味があったのだ。
……とでも思わなければやっていけない、この世の無情な決まり事を、心にぐさりと突きつけてくる物語だからです。


(付け加えておくならば、私たちがアルだと思っていたすべてはトルタです。作中にアルは登場していません。私たちが接した時も、私たちが手紙を読んだ時も、そこにいたのは、すべてトルタです。真実、私たちが直接知っているもの。それはトルタとフォーニだけです。ではシンフォニック=レインという物語のいったいどこに、アリエッタは存在しているのでしょう? フォーニエンド? だとするならば、私はその解釈こそ、あんまりと言えばあんまりな話ではないかと思います。それはトルタにとっても、フォーニにとっても、そして、アルにとっても)



■私の主張を要約するとこうです。
「そもそもクリスはアルよりトルタが好きだった。けれど振られて傷つくのは嫌なのでアルで手を打った。アル自身はそのことを知っていたし、それが大きな間違いだとも気付いていたけれど、アルはクリスのことが本当に好きだったので、言い出せなかった」。シンフォニック=レインという物語は、この隠された前提を持って開始され、それを解決する方向へと展開する物語だと、私は認識しています。そして、この隠された前提が暴かれるのは、最後のシナリオ、つまりフォーニエンドの持つ矛盾への疑問によってであり、その意味でフォーニエンドはシンフォニック=レインの最大の虚偽であるゆえに、最も重要な、真実を導くシナリオなのです。


言い換えましょう。「A:クリスは本当にアルが好きだった」のであるなら、アルエンドは最後のシナリオ(結末――めでたし、めでたし)として"al fine"に位置を据えられるべきなのです。そうですね? ところがそうではなかった。"al fine"とされたのは、どういうわけかトルタのシナリオだった。そして、もしもAの前提を真とするならば、トルタエンドは「妥協(ホントはアルが好きだけど、死んだからまあ仕方ないか)」に過ぎなくなります。そのくせ、繰り返しになりますが、その「妥協」シナリオこそが"al fine"(結末)に存在するのです。これはどう考えてもおかしい。そこで、読者としての私たちは、それまでAを是として解釈していたシンフォニック=レインの物語を、すべて再構築する必要に迫られる。


ここで私は、初期"da capo"の三人の物語を終了して、トルタの物語へ移行した時のあの衝撃をもう一度、より激しい形で味わうはめになりました。目に見える雨が止んだまさにその時、私たちの心に降り始めたあの強い雨――当然のようにそれまで是としてきたもの、信じていたものが完全にひっくり返される、あのとてつもない衝撃。そう。信じられないことに、シンフォニック=レインに含まれるすべての物語は、「クリスがアルと結ばれるため」ではなく、その実「クリスが彼自身の本当の気持ち/望みを暴露されるため」――つまり、「クリスがアルと決別するため」に用意されているのです。ならばこそ、クリスが真実求めていたのは、アルではあり得ないそれは本当に壮大な、皮肉の物語です。


この意味で私はクリスを、シンフォニック=レイン最大の嘘つきであると断言します。そしてそのほとんど無敵の嘘(だってそうでしょう? 「クリスはアルが好き」、それはほとんど”設定”なのですから。まるで反則です)を暴くこと、読者をそこへと導くこと、ができたのはたった一人、今はなきアリエッタの魂だけなのです。アル/トルタはまさしく一命を投げ出して、クリス/読者の”目を覚まさせた”。そして何より、とても皮肉なもの、悲しみに満ちたその心を、「言わない方がいいこともある」と胸に秘めながら、それでも「いつか分かるから、いいの」と優しく告げて、一人旅立つアル――フォーニの想い。この果てしなく美しい物語において、私は生まれて初めて、創作物への涙を経験しました。


■まとめましょう。
私がシンフォニック=レイン最大の虚偽と呼ぶもの、フォーニエンドとは、クリスの持つ無敵の嘘、「A」を解除する鍵なのです。あのシナリオが存在しなければ、トルタエンドさえ単なる妥協の産物に過ぎませんし、リセやファルに至っては、それぞれの結末がどんな意味を持っていたのか理解できない。けれど、まさにフォーニエンドを否定することのみが、それまでの全ての結末の意味を塗り替え、偽りとしてのフォーニエンドの指し示す必然こそが、シンフォニック=レインのすべての結末を一つの物語へと結び直します。 そのすべての場所に、その一人一人に向けて、「本当の気持ちを思いだして」と願うアリエッタの暖かな想いが溢れる、ずっと大きな物語へと。


アリエッタという名前は、”そよ風”を意味するのだとか。タイトル画面でトルタの髪をそよがすもの、それはとても優しいそよ風、間違いなくそこにいた誰かの気配です。そしてシンフォニック=レインの世界のどこにでも、私たちは彼女の気配、その優しい息づかいを感じることができたのではないでしょうか。そう、彼女はどこにもいなかったけれど、どこにでも存在していました。だから今は、シンフォニック=レインという作品、そのものすべてがアリエッタの愛であり、そして真実、それは今はもう世を去ったあの人の残した物語である――私はそう考えて、この物語に満足しているのです。