地獄の好日

わんことくらそう

わんことくらそう

博物士さんの『わんことくらそう』感想文を読むとつくづく面白そうに思える。

我が実家にいる雌犬は拾われものの雑種で、色が白っぽかったという理由でしめじと命名したところ「あまりにも不細工だ」という家族の猛反対により急遽ポコとなった。ポチはオスの名前っぽいからポコである。しめじと似たようなものではないかと思う。動物病院の診察券にはまだ「しめじちゃん ぽこちゃん」と訂正の跡が残っている。


たかが畜生である。日本人はそこのところ良くわかっている。鯨なんぞしょせん畜生、犬も猫も所詮けだもの。可哀想だが私のために死ね、死んで私の骨身となれ。いただきます。何もかもを南無阿弥陀仏と結論づけてこの列島の人間達は生きてきた。人も所詮けだものなのだ。遅かれ早かれ死ぬ。極楽浄土も芯から信じている人はそれほどいるまい。それも含めて南無阿弥陀仏

そこにあるのは恐ろしいくらいに明るい諦観ではないかと僕は思う。あるいは日本人は骨の髄まで阿弥陀仏に絶対帰依し奉っているのかもしれない。幸せなことだ。一歩間違えれば絶望である。実際世の中真面目に考えた人からおかしくなる。こないだも真面目な友人が共産党の下部組織に飲み込まれた。気の毒なことだ。


仏像の目はとても印象的だ。彼らの目。あれはきっと諦観の瞳に違いない。少なくとも聖人の像の澄んだ眼差しではありえない。行く先を指し示してくれる光はそこにない。暗がりの中に佇み、ひたすらこちらを見つめるその目。十字架のキリストのように視線をそらさず、ただじっとじっとこちらを見つめる。

これが日本の宗教だと思う。現実を本気で見つめるとおそらく人は壊れる。実際、十字架のキリストでさえ群衆を見つめようとしないのだ。彼を信じ、聖人となった人々は言うまでもない。彼らは結局のところ十字架の上に理想を見つめたのであって、何時か起こるはずの奇跡を信じたのであって、けして人の世を認めたわけではないだろうから。

ただ、あきらめの瞳をもってそれを眺める。何もかも嘘だと感づきながら楽しむ。嘘であれば楽しければ楽しいほど良いのだ。むしろ楽しければ嘘だっていいではないか。何が本当なのかなど誰も知らないのだから……そう思いこめる強さを日本人に与えているものこそ日本教ではないか。世界中誰にでもできることではない。普通は無理だ。

嘘が嘘としてほころびを出さないように、無意識のうちに互いに遠慮し合いながら、この国は今も様々なことを諦めながら存在している。幸せなことだ。究極的には自らの消滅さえも諦めてしまう精神構造なのだから。この世知辛い世界でよく健闘しているものである。本当に幸せなことだ。


きっとなにがしかの加護は受けていると僕は思う。少なくとも秩序の神ではあるまい。輝く十字に辿り着くことはおそらくないだろう。混沌の思念かと言われてもまたどうかと思う。わりと一本気なところはある。わけがわからない。

ただ、それでもいいと僕は思う。我々は幸せのなんたるかをおそらく知っている。天国がなくとも、極楽がなくとも、日々をそれなりに諦めて生きていく幸せを知っている。そして、それが許される現実を与えられている。これを幸せだと言わずしてなんと言おう。

この世を地獄だと言う人がいる。僕は思う。たとえ地獄だとしても、たまには幸せな日々もあるんじゃないかと。