端的に言いましょう


・フォーニエンドで、最後にクリスの側で微笑んでいるアルは、トルタです。
奇跡など、起こっていません。どちらかといえば、呪いです。
アルは死にました。それでもトルタは、アルの振りをし続けるしかない。
フォーニエンドとは、『シンフォニック=レイン』で最も残酷な虚偽に満ちたエンドです。

信じている限り、最も幸せなエンドなのに。


al fineは、12/15から始まります。そして次の日は? なぜか12/8です。そして次の日は、当然のように12/1を語り、さらに11/24まで戻った翌日、ついに3年前にまで物語はジャンプします。al fine序盤において、物語は、なぜか戻って行っている。そして、物語が戻るに従って、私たち読者は、その語り手が「アルではなくトルタであること」に気づきます。逆に言えば、当初、12/15の時点では、アルとしての「トルタの偽装」は、既にほぼ完璧でした。そしてその、「ほぼ完璧な偽装」の嘘を暴くためには、私たちは過去に遡るしか手はなかったのです。言い換えれば、「トルタは日に日に、アルに近づいている」。その結果、実際私たちは彼女の偽装を見抜けなかったのです。

繰り返しになりますが、このトルタ視点の物語は当初(すなわち12/15)、「まるでアルによって語られているかのように」思えます。その実、それはトルタが語っていたわけですが、少なくとも私たちはそれを「アルが語っている」と信じそうになった。トルタは大嘘つきです。極めて優秀な、嘘の紡ぎ手です。それが嘘だとわからない限り、彼女がそれを明かそうとしない限り、彼女の嘘は真実だとしか思えない。嘘は、それが本当だと思いこまれる限り、真実になりえます。少なくとも、そう「信じた誰か」にとっては。

また、al fineで最も注意深く読まなくてはいけない箇所の一つ(実際のところ、本作に「注意深く読まなくても良い記述」など一切存在しませんが)。それは、1/5、トルタが「手紙」に関して行う独白です。引用しましょう。


『ただひとつ、聞かせてください。トルタのことをどう思っているか』
もしもクリスが私のことを好きだと言ってくれれば、私は何に変えても彼のために全てを
捧げるだろう。アルのことも、卒業演奏のあとにきちんと話し、その上で彼の支えになる。
望まれようと望まれまいと、最後まで彼の幸せを願って行動する。

『そしてもし、アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているのなら――
私は身を引き、アリエッタとして彼をいたわるだろう』


つまり、そういうことです。トルタは、もしそうなら、「アルになろう」と決断している。フォーニエンドは、「クリスにとっては」違ったとしても、事情を知らないトルタにとってはまさに「アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っている」エンドでしかあり得なかった。そして実際、クリスはアル=フォーニだと結論づけましたし、彼はフォーニを選びましたから、フォーニエンドとは、「アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているエンド」なのです。

トルタは、アルになってしまうのです。なってしまい得るのです。
それは嘘なのに、疑いを持たない限り、本当なのです。
死ぬまで気づかなければ、死ぬまで本当なのです。
SRは、極めて恐ろしいことを語っている。