協調原理

あれちゃうちゃうちゃうん?
えっ、あれちゃうちゃうちゃうんちゃう?
でも、ちゃうちゃうちゃう?
うん、ちゃうちゃうちゃうちゃう!

文章を読むとき、読者は多かれ少なかれ協調原理の中にいるのだそうです。

極端に言うと、「この連続したページの染みはただの汚れの集合ではなく、何らかの意味を持っている」という前提を前向きに認めることで、言い換えれば記号の羅列を文字、そして文章として読むことです。

このことはあまりにも当たり前なので、普段僕らはさっぱり意識しませんが、一歩進むと、それは僕らが『物語』を読む際にきわめて大きな意味を持ってきます。


つまり、例えば、僕らはは虫類の図鑑を読んで、「これは冷血で無感情で恐ろしい存在としての人間存在を暗示しているに違いない」とは思いません。

けれど、例えば赤ずきんちゃんを読んだとき、僕らは「悪い狼は退治された、万歳」と思うと同時に、「これは男は危ないから女の子はご用心」ということを意味しているのだ、などと想像する場合もあるのです。

それは僕らが『物語』の意味する(と思われる)ものを拾い上げるのに、どれほど協力的か、ということに段階的に関わる問題です。平たく言えば、ある『物語』に協力的であればあるほど、その物語が多くの意味を抱えているのだ、という前提に読者は立つことになります。


反対に、彼が協力的でなければないほど、その物語は見ての通りの意味しか持たないことになります。「嘘っぱちで、子供だましだ、つまらん」…。だから、一般的に物語は、読者にできる限り協力的であることを求めます。
(逆に、そんな傾向を持つ文章が『物語』だと言えるかもしれません)

このことを「物語の持つ過度の協調圧力」、と言う人もいます。そこには意味があるはずだ!こう叫んで色々と解釈をすることが推奨されるし、正当化される。僕のシンフォニック=レインの解釈など、まさにそんな感じですね。


けれど、元よりフィクションであるストーリーを、単なる歴史的お約束である文字という記号の配列で語る『物語』の上において、協調原理はその本質ではないかなあと僕などは思うのです。

何もかもが最初から嘘なのに、それがあえて生み出されたのであれば、そこにはきっとできる限り素敵な意味が埋められているはず。さもなければ物語を読む価値なんてないじゃないか。
そう信じることが、強い協調原理を生みます。もちろん、それは作者と読者の間の信頼関係を強要することでもあり、「過度の協調圧力」と言われる所以でもありますが。


また考えていきたい問題です。