見えないもの

作者が自作について語るのは、作品にとって決していいことではありません。『ターン』の場合も、読者の方がそれぞれに読んで下さればいいのです。しかし、ここでこんなことを書き始めたのにはわけがあるのです。つまり、作中で起こる様々なことには、当然ながら、作者の意図があるのです。
ターン, あとがき

「<<ここでは、これを勉強したいんだ>>ってことが」手で、教壇の前にすっと線を引き、「この線から、こっち側の人間に分かってなかったら、これは辛いわよ」
…少なくともね、アザラシの生態観察の文章読んで、アザラシについての知識を増やすのは、現代文の授業じゃないわよね
…そこにあるのは素材でしょう。素材を通して、何を伝えたいのか。読むのはそのためだもの。――だからね、先生は、伝えたいことをちゃんと持って教室のドアから入って来るべきだと思うの
スキップ, pp283-284

意味としての世界、その中心にあるものは言葉にならない存在である。優れた物語は、その作品全てを貫く「創り手」の意志により、内在する全ての事象に意味の存在を確信させてくれる。全てのことが意味を持つこと、あるいは全てのことが持つ意味の意味。その確信を得たとき読者を満たす喜びは、まさに「世界の創り手」との出会いであり、彼の真理(ことば)の発見である。持って回った言い回しは止めよう。つまるところ、読書とはちょっとした神(この言葉にアレルギーがある人には何とでも言い換えて貰って構わない、どら焼きなどがお薦め)の気配との出会いに他ならない。