まどマギ騒動に思う

 やたら褒めそやされてるまどマギだけど、ぶっちゃけ自己犠牲を正当化してて不健康なのでみんなそのへんもっとよく考えるべきだ、みたいな論を張った記事が炎上してるみたい。

 「まどマギの社会的責任についての問題提起」について
  http://d.hatena.ne.jp/amamako/20121010/1349834149


 たぶん、まどマギ大好きな人のほとんどは「そうだ、利己的な振る舞いは良くない。利他的行動のみが世界を救う。まどマギ万歳!」などと解釈しながら感動に打ち震えたわけではない。

 ただなんとなく、救済! 奇跡! ループからの脱却! 概念! みたいなキーワードから一種脊髄反射的かつ優れて純粋カタルシス的な快感を得ているのだと思われるために、その不健全さについてはあまり危惧する必要はないんじゃないかと思う。

 むしろ、冒頭のブロガーさんの行ったような、いわば作品に対する、現代文の解釈的な読解によって当然出てくるであろう疑問点について、多くの視聴者はまったく気にも留めないという現実自体が、ある意味で、わりと不健全なんじゃないかと僕は感じる。


 つまり、何らかの創作作品にたいして現代文的な解釈を行うという能力を、本来のアニメのターゲットである”お友達”のみならず、今や”大きなお友達”の多くさえ持っていないんじゃなかろうか、というごく主観的かつ失礼な危惧をどさくさ紛れに暴露して、あわよくば炎上の尻馬に乗ろうかというあれである。

 少なくともね、アザラシの生態観察の文章読んで、アザラシについての知識を増やすのは、現代文の授業じゃないわよね。
 そこにあるのは素材でしょう。素材を通して、何を伝えたいのか。読むのはそのためだもの。


スキップ (新潮文庫)

スキップ (新潮文庫)


 北村薫さんの小説『スキップ』の一節を折に触れ引用するのだけれども、現代文について上手に説明した文章だと思う。


 つまりは「作者は何が言いたいのか?」について考えるのが、少なくとも僕らが学校で習った現代文の作法であった。そして果たして、まどマギファンは、まどマギを通して作者は何を伝えたかったのかについて考えたことがあるだろうか。たぶんない。


工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版


 奇跡的な救済をもって物語が閉じられた、というのが現在におけるまどかマギカの主流の解釈であるならば、僕個人としての懸念は、もう一つ別に発生する。

 まどマギは作内にシリアスな問題を抱えてはいるものの、あくまで創作であっていわば嘘っぱちである。奇跡的なことも普通には起こりえないので、これも嘘っぱちである。嘘っぱちの抱えたシリアスな課題を嘘っぱちのおかげで解消することから、我々は何か教訓を引き出すことはできるだろうか。

 もし一つあるとすれば、「現実世界に奇跡はないのでシリアスな問題の解決は困難。リアルは非情である。」という絶望的な教訓くらい。そして、まどマギに限らず、だいたいのループ・奇跡もの創作はこの結論を出してくれる。読者は泣く。


 あ、シンフォニックレインはたいへん愉快な創作で、死んだはずの子が奇跡的に生き返って、その子に顔のそっくりだった子が急にいなくなるという事実だけを見せてくれる奇跡的な最終シナリオを持つのでお勧めします。