あんよ氏のお返事へのお返事

七月四日付けの日記にお返事を頂いていたことを先日初めて知りました。感謝。
http://www.puni.net/~anyo/diary/200607.html


さて今から読み直してみると我が事ながら一体何が言いたいのかさっぱりわからない日記で、こんなヘンテコな文章からトラックバックを送られた先方はさぞかし困惑されたことでしょう。お気の毒です。が、今となっては少々考えもまとまったことなのでお返事を。


涼宮ハルヒの憂鬱』という作品が根本的に「キョンハルヒの恋愛もの」であることに僕は全面的に同意します。ただしその視点で本作を見通すのであれば、その世界の中心にいるのはあくまでキョンであってハルヒではない、というのが僕の主張なのです。つまり、世界はすべてキョン(の望み)を中心に動いていたのであって、ハルヒは神どころかその舞台上の一キャストに過ぎなかった。言い換えるなら彼女もまた、長門やみくる等、スーパーナチュラルキャラの一人(能力は特殊で強力ではあるけれど)に過ぎません。そしてキョンとは言うまでもなく読者の依り代であって、その望みとは読者の望みそのものです。そう、結局のところ、僕や他のファン、何よりも著者は、あんな女の子に振り回されながら高校生活を送りたかったのだ、本作は言ってしまえばそれに尽きる。ただ、それは叶わなかったけれど、僕らはこういった優れた作品を通して、そんな日々に限りない愛おしさ、そして一抹の淋しさを交えた目線を送ることができる。こんな素敵な(とても皮肉な)体験はなかなかないでしょう。その意味で、本作は単なる恋愛ものの一つであっても、それを越えた、何というか非常にtouchableな(ハルヒのセカイではなく、まさに僕らにとっての)それだと僕は思うのです。


だからこそ、例えば「乙女の純情」といったキャッチフレーズを、僕は否定したい。「では、それは何なのだ」という側面を無意識のレベルで排除している言葉は、意図しない思考停止を招く可能性を孕んでいる点で、こと読書の文脈においては、とても危険です。もちろん、僕はあんよ氏の逐語解釈の姿勢を尊敬し、その結果としての「恋愛のアスペクトから見たあらすじ」の内容に同意します。作品に対する愛がないと、上記のような達成はまず不可能でしょうし、分析の結果の了解可能性は極めて高い。それでも、例えば本作を「SF」だと仮定することが、本作を「ハルヒ世界の図鑑」にしてしまう可能性に僕は強い危機感を覚え、何よりもそれを損失だと感じるのです。僕たちはアザラシの(隠された)生態の文章を読んで、アザラシの生態を学習したいのではないはず。もちろん、人間はアザラシではありませんし、また個々人間の意志の絶望的な断絶は否定しません。けれど、それでも、読書はやはり、見える「現象」ではなくその「意味」を問うていくものだと、僕は思うのです。作品セカイを僕らの世界から切り離し、神の視点を得た気分になることは簡単です。ただし、その行為は同時に、セカイを世界に重ねる喜びを排除してしまう暴挙であることも、また確かではないでしょうか。