ハルヒアニメ最終回

ちょっとばかし駆け足すぎだったような気がする。12話らへんで無駄な時間(技術力自慢)を過ごしている暇があったのならこっちに回してくれたらよかったのに。もう少し間というか、考えるゆとりを持たせた構成にしてほしかった。ただでさえ目も当てられないくらいの”お約束”な結末なのだから、ただ見えたものだけを拾っていけば「ベタベタ」という感想が噴出するのは避けがたく(文字として提供された原作でさえも、そうだった)、また元々「すべてのことに意味がある」作品だけに、こうも追いかけるのが精一杯の展開速度では、提供される意味たちが受け取り手の能力を越える。


見ている側が「どうなってんのよ、何なのよ」について、少し立ち止まって悩む隙が欲しかった。時間平面の隙間にはさまっている行間を読むチャンス。それは実際極めてシンプルながらも、放映第2話から長々と敷かれた伏線だ。脚本力はただものではない。また意識的に物語を二つ同時に展開した京都アニメーションの仕事である。これは単純に時間の制限の問題だろう。ここで主張は再び12話の悪口にループするわけだが、あの意味のない(皆の評価が「ギターが上手かった!」に終始するのはまさにその証拠)回を一話丸々やっている暇があったなら、こっちにせめていくらかでも回せば良かったのだ。まったくもって勿体ない。けれど。


ともあれ僕は満足と言っていい。涼宮ハルヒの憂鬱、久方ぶりにオンタイムでテレビアニメを堪能させて貰った。思えばこれはエヴァンゲリオン以来のことだ。結果論としてあれは酷かったけれど、あの作品は確かにアニメを等身大の人物の内側に開放した。ついでにそのまま閉じ忘れられたアニメの結末が、今やっと閉められたのだと思う。まったく、それはベタでも何とでも呼ばれて良い。僕はこういうのを望んでいたのだ。見えるものその全てから意味を読み取っていく喜び、それらが一本のラインに収束されて行く快感、そしてその先に明確に現れる、超ポジティブなメッセージ。


まだまだ続く日常。終わったのに終わらない世界。幸せな予感を感じながら物語を本棚に戻せることほど、本読みにとって素敵なことは他にあるまい。原作者、京アニ、制作に関わった全ての事象に感謝。つまり、このとてもとても面白い、僕らの世界に。