谷川流氏のインタビュー記事より

小説で悲しいことは書きたくない。それは現実にあふれているから。
それよりユーモアの方が好きだし、ずっと難しい。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20060712bk04.htm

彼のスタンスがなんとなくわかった気がする。同時に、僕が彼の作品を好きなわけも。彼はしれっと「悲しい話を書くのはずっと簡単」と、かなり波乱含みのセリフを言い切っているのだけれど、それを可能にしているのは彼の強い自負によるものだろうし、僕を含む多くの読者はその自負をあっさり肯定するだろう。掛け値無しに彼の話は面白く、ハッピーだ。彼の願い通り。


よく、こんな批判を耳にする。「ハルヒなんてベタベタで詰まらない」。あれがベタベタである、とする発言が一体どのような判断と根拠において発生しているのかはさておくとしても、そうやってベタベタ(彼らの言うところの)を回避した結果、結末にさえたどり着けない、陰鬱なばかりの、あるいは自分のお尻さえ拭けない作品が、山ほど生産されたことを見僕らは落とすべきではない。


「リアルな物語の中で、困難に陥いった登場人物を救うことは、実は素人が思うほど簡単ではない。もちろん作家には自由意思があるから、リアルでないハッピーエンドをでっちあげ、物語を破壊してしまうことはできる。物語を殺す自由はあるが、物語を殺したくなければ作者にできることは少ない」http://d.hatena.ne.jp/essa/20020424/p1 と、アンカテ氏は彼のサイトで述べている。


それは様々な意味を含んでいるだろうけれど、ここで一番重要なのは、物語を結末まで導くのは実際難しいのだ、という主張である。その通り、殺してしまうのは簡単だ。間違いなく難しいのは、リアルなハッピーエンドを提供することである。リアルなハッピーエンドとは何か。それは僕ら読者自身がハッピーだと実感し、満足できる――まさにリアル(僕らの現実)に結びついた結末に他ならない。


「人は他人の痛みに鈍感だ」と谷川氏は言う。それを実感し、他人の傷みに敏感な人であろうとしているからこそ、彼は人を悲しませるような小説を書こうとは思わない。彼の対象は、いつも悩み、苦しむ、リアルな他者としての読者である。そんなリアルな他者たちの世界、敏感で傷つき易い現実を見つめているからこそ、彼の作品は僕らに、あれほど明るくハッピーなユーモアを与えてくれる。


「読者を楽しませ、僕も楽しみたいんです」。このセリフがどれほど当たり前な内容に見えても、『涼宮ハルヒの憂鬱』を知る読者には別の意味を持つだろう。結末とは、物語と現実との結点である。ハッピーな物語の結末を通して、僕たちは僕たちの世界を肯定的に受け止めることができる。物語の結末は、世界を一新できるのだ。そう、例えば、ハルヒキョンが語ったように。「世界は面白いのだ」と。


(脱線かもしれないけれど、彼の言葉による説得が結局失敗に終わっているところはとても興味深い。そこにはもう一つ、決定的な要素が加わって初めて、世界を収束させた。それを行動だと言う人もいるかもしれないし、お約束だと言う人もいるかもしれない。ただ僕は、こんな時にこそ奇跡という言葉を使うべきじゃないかと思う。アニメでそこに流れるのは、まさに聖霊への賛歌だった。)