あやかしびと

あやかしびと 通常版


あやかしびと』終了。
おおよそ面白かったのだけれど、なんだかしっくり来ないので、
一体何がしっくりこないのかを考えてみる。
褒めたい点。どの結末もハッピーエンドに見えること。
納得できない点。何が結末なのかよくわからないこと。


まずどの結末も一見ハッピーである、という点を大いに評価したい。ハッピーで終わることにより、その作品は少なくとも読後にさわやかな感覚を残す点で有益である。他に何は無くとも、カタルシスは私たちが創作物に求める至上の喜びであり、それだけでその作品の存在は正当化される。反対に、一見ハッピーでない結末というものもある。そして、その手のエロゲ作品は基本的にダメだ。


ある物語がハッピーでないのは、その物語が一つ以上の”問題”を示唆的に含むからである。この”問題”は、しこりとなって読者にストレスを与え、その除去によって初めてカタルシスとなる。”問題”が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、解決時のカタルシスも大きいが、当然、そのためには、どのような方法であれ、それぞれの結末において、全ての”問題”が解消されなければならない。反対に言えば、ある作品の結末とは、その作品という問題の答えそのものなのである。


故に、著者はその作品を終わらせるために、その問題の”答え”、それを解決する”手段”を、その作品が語る物語を通して、読者に与えなければならない。もちろん、方程式をすっ飛ばして”問題”の”答え”だけを書いても、誰も信用してくれないから、もっとも重要なのはこの”手段”部分の論証となる。わかりやすく、論理的に、無駄なく、”問題”を”答え”へと導いて行く必要がある。もしそれができなければ、その作品はズバリ失敗である。


当然の事ながら、簡単なことではない。というより至難の業である。扱うテーマ、つまり作品が抱える不幸の源泉が根本的であればあるほど、問題解決に必要な手段や情報は哲学的となる。このあたりに手を出してしまった作品において、しばしば問題が解決不能=結末がないのは、ある意味当然だ。人類数千年の思想の歴史を踏まえても、解決不能な問題は減らないどころか、むしろ深刻化しているのだから。


ともかく。ハッピーでない結末を単純に並べて悦に入る作品は、作成者にも解けない問題を提示して喜ぶ問題集に等しい。終わっていない作品をそのまま放置しているのだから、人前に発表する作品として論外だ。ほとんどサギである。何より結末がない物語などは、日々の生活で十分以上に味わっている。わざわざ創作でまで味わいたいとは思わない。ストレスばかり溜まる。カタルシスどころではない。


言ってしまえば、精神的マゾを相手にしているのでない限り、作品は必ずハッピーに終わらなければならない。ハッピーはカタルシスから生じ、カタルシスは問題の解決から生じる。そして作品最大の問題解決とは、作品の結末であるから、作品の結末は必ず作品最大のハッピーであるはずだ。当たり前のことなのだが、エロゲ界においてはこれができていない作品がほとんどである。ともかく。


トーニャの結末が結末でないことは誰でも簡単にわかる。刀子の結末はまあまあだが問題は残ったままだ。薫の結末も比較的結末に近い気はするがやはりだめ。となれば常に主人公のそばにひかえるすずか、と思いきや、彼女の結末もまた他の結末と大差ない。結局彼女もまた、主人公に対する関与の度合いの差さえあれ、他のヒロインと同じく主人公の取り巻きに過ぎなかった。あの構図であればすずを別の立場に置くべきだったのではないかしら、と思えて少々肩すかし気味である。


ああ、なるほど。最初私は、『あやかしびと』において、あらゆる結末がハッピーであるが故に、物語の結末が見えなくなってしまっているように感じた。が、結局、何のことはない、誰がヒロインかよくわからなくてすっきりしていないだけのようだ。