悲しいお話

「我々にとっての物語の定義とは何か」に関しては既にあちこちで考察がなされている上に、今ひとつ焦点がぼやけているように思えるので、物語に結末を与えるという行為にまつわる問題について。”結末”の姿を単純化するため例えばドラゴンクエストをに代表される典型的なRPG系のストーリーについて考えてみると、その構造は「主人公が魔王をやっつけたことで世界は幸せになりました」という具合。さてここにはいかにも明確な結末が与えられていて、何かといえば明白な幸せの獲得である。物語はその世界の幸せの獲得によって結末をむかえる。ゆえにこの文脈で考えるなら、当初(明かであろうと、隠蔽されていようと)物語内部に存在する不幸の根が深ければ深いほど、そこに結末を与えることは難しいということになる。

困ったことに幸せとはしばしば主観的なものであって、これを普遍的客観的に証明することは難しい。ところが不幸というものはどういうわけか極めて普遍性が高く、実に簡単に表現できる。言い換えるなら不幸のためには誰かを殺せばよいが、幸せのためには生かしておくだけではダメなのだ。そんな不幸をかき消しうる幸せを”十分な説得力をもって”描写することは非常に困難以上の何かだろう。そしてこのことが導く単純な結果が現代の不幸な物語の氾濫であり、そのまま未完結の物語の濫造である。私たちは既にドラクエの素朴な物語には戻れない。しかしあいにく、ドラクエ以上の不幸の解決は少なくとも素人にはまず無理なのだ。

そう、誰でも簡単に不幸な話を書くことができる事実が問題なのである。もちろん修辞の上手下手は存在するから、そこから発生する読者被害の程度に差はあるとはいえ、それらは本質的には皆同じ。人を嫌がらせるだけなら誰でもできるのであって、難しいのはそれ自体幸せな話を書くことなのである。そしてそれが不可能だからこそ著者達は「まず不幸な状態を描写しておいて」その後「それと比較的にマシな状況を提示する」ことでこの問題に対処する。幸せそのものを描けないがために、不幸との対比(つまり不幸の解消)によってその表現を試みるのであるが…前述の通り不幸は実に容易に著者の実力を越してその深刻さを拡大する。

そんな著者にもどうにもできなかった不幸は言うまでもなくその物語の中では解決されず、当然の帰結として読者の前に不幸のままに提供される。わざわざ並べ立てるまでもなくそういった作品は実際多く存在するし、またそれらがいかにも「終わっていない」ことは事実として多くの読者が理解するところだろう。それら作品がいかに「幸せだもん」と言い張ろうとも、そうかなあと呟く読者の心までは否定できず、むしろそのことこそが問題提起として物語の続編の必要性を無言のうちに示唆し始める。私はどうしてこの物語がまだ終わっていないと感じるのか。それはつまり私がこの物語に満足していないからであって、結局のところ私がまだ幸せではないからだ。

あるいは我々は悲しい話しか書けないのかもしれない。生きていること自体が不幸の源泉であり、幸せが不幸との対比の中でしか見いだせないのなら、むしろ物語を幸せなうちに終わらせるためには登場人物の死を持って行うしかないではないか。アリストテレスの詩論のうち現存するのは「悲劇について」のみであり、その内容を単純化するとこうなる――物語、あるいは悲劇とは何か。その結末において主人公あるいはヒロインが、あるいは両者共に死ぬ。果たして彼の”喜劇”についての論考は存在したのか否か、今となっては”神のみぞ知る”ことではあるが、かの驚嘆すべき天才が数千年の過去にこのようなやけくそな結論を引きだし、以降の長い歴史の中で”喜劇”の定義がついに発見されなかったことを考えると物語、あるいはその結末というものの本質はいかにも皮肉なもののように思える。