主の日 のんびりプレイ

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン愛蔵版

ファルシータとトルタの間でふらふらしていたら、トルタバッド――というかある意味で某グランドエンドの前振り――にたどり着く。AIRで言うなら「バスエンド」みたいなもので、一番あっさりしていて一番わけがわからないけれど、ある意味で一番幸せ…なのかなあ。とりあえず、知らないことは、知らないことを知らない限り存在しないわけで。ただ残念ながら、私は知っている。

あの後彼らが故郷にたどり着いた時、”彼女”は(検閲)はずなので、当然彼女は”彼女”の姿をクリスに見せることはかなわない。とすると、彼女がそのまま(検閲)を続ける(むしろ、続けざるを得なくなる)可能性は極めて高い。結果として、トルタバッドは某グランドと同じ結末にたどり着くのではなかろうか。うん、やっぱりバッドだ。これはなし。

気を取り直してファルシータパートに戻る。ファルはやはり可愛い。無茶苦茶可愛い。が、「お気になさらず」だの「好きでやっているから」だのという言葉がジャブのように効いてくる。言葉の持つ二面性を心ゆくまで堪能させられるというか、いかに普段私が「何も考えずに会話している」のかということをビシバシと指摘されてとても辛い。知っていなければ、何も考えずにいられるのに。

何か考えるというのは、もちろん、別に策略を巡らしながら、という意味ではなく、相手の発言の真意を量りながらという程度の意味である。実際のところ、シンフォニック=レインのキャストたちの台詞は、ことごとく裏があり…というか、むしろ必要以上にそのままなのだが…読者である私は、とことんミスリードした。勘違いしているのは、クリスではなく、私だった。

私はまさにこの点で、シンフォニック=レインという作品を心底恐ろしく思う。言葉によって語られる情報を収集し、判断(それは完全に間違っていた)を下したのは私自身であり、その私の判断は、そのまま私の現実の生活を統べている。また、彼らによって語られる、真意の隠された(しっかり読み間違えた)あらゆる言葉は、そのまま私が生きる現実で語られる言葉に他ならない。そう、この作品は、そのまま私の日々の世界の鏡なのだ。

いったい私は、どれほど「わかっていない」のだろう。きっと私は、あまりにもたくさんのことに気づかないまま、のうのうとこの現実に生きているに違いない。そしてたぶん、そんな「気づかないこと」こそ、もっとも誰かを傷つけ得る行為なのだ。今は十字架の上でキリストが呟いたという言葉――彼らを許してください、何をしているのか、彼ら自身わかっていないのです――が、とても心に痛い。

本当に、私は今、いったい、何をしでかしているのかしら。