補足・視点と立場

http://d.hatena.ne.jp/gccbbs/20061104#p1
『見るものは人により』
すみません。ちょっと忙しくて精神的な余裕がなかったのと、論点が散漫になり気味だったのでやる気を無くしてしまい。ただ一つ言えることは、分かろうと思って聞かなければ絶対にわからないのだ、ということなのです。以前SRについて議論していた時も散々痛感しましたし、竹島問題なんて、まさにそんな感じですね。


『些細な問題』
というのもまた語弊のある表現ではありました。ただ言い換えるなら、こうした疑問に対して僕はいくらでも推定が立てられるし、それに対する批判的な推測もまた立てられるでしょう。魔王さんが仰る通り文章に書かれていない内容に関しては了解可能性の差こそあれ真偽の判断は不可能です。そういう意味で、僕はこのアプローチから誰かが引き出した物語の筋を、同じ手法で批判することにはあまり意味がないと思います。それでももしそれが重要であるとするなら、僕は冒頭の結論に戻るしかありません。つまり、見たいものは人それぞれと。


『前提』
僕はシンフォニック=レインという物語を『大きな一つの物語である』という仮定の上で総合しようとしました。これは僕にとって好ましい手法で、なぜなら本作に含まれるそれぞれの悲しい物語は、それぞれ単体では常にどこかに痛みを捨て切れませんが、それらをひっくるめて肯定することで僕はそれらの悲しみの集合に、確かに悲しみの存在する世界について納得できそうな気がしたからです。


『理由』
世界に奇跡はないけれど、悲劇は日々の生活の中に見いだせる。つまるところ僕は僕の生きるこの世界を、シンフォニック=レインという物語が提示した世界の中に見たわけです。そして理不尽な悲劇で確かに磨り潰されていく人間が、もし同じく理不尽な奇跡によってしか救われないのだとしたら、奇跡の存在しないこの世界は絶望そのものだと。ゆえに僕は奇跡を否定しないわけにいかない。


『もし』
もし彼女がそうなったのが偶然に過ぎないのだとしたら、彼女がああなったのもまた確率の中の偶然でしょう。彼らの苦しみも悲しみ、あるいは喜びもまたそれ自体何の意味もない。もしそれが偶然なのだとしたら、そうならないこともまた可能性の中にある。なら、その確率の中から偶然僕らの前に提示される現実は、単なる運不運と片づけられます。これは余りに乾いている。言い換えるなら「ああなるのが一番良いなら最初からそうならない方が一番良い」のです。彼らの三年間は不幸な茶番です。


『それが必然だったなら』
彼らの前に現れた事件には確かに意味があった。そう思わなければ、それらはあまりに辛い出来事だったのではないかと僕は思います。そしてまた未解決に終わった他のキャストたち、その物語たちも。そんなあらゆる本作の悲しみを拭うには、今のところ僕は他の方法を思いつきません。そうなったのは必然だった――だとするならば、と考え、そこに全てを結びつける以外には。


『鎮魂歌』
悲しみに満ちた世界の果てにあったのは、死者への送別の歌でした。あらゆるキャストを含めてその永遠の安息を祈るこのシーンは、本当に見事だと思います。「彼らに永遠の安らぎを」という司祭の言葉を通して、読者は彼女らのみならず今や遥か彼方に置いてきた他のキャストたちにも感謝の祈りを捧げることができるでしょう。未だ迷い行く彼らの旅路の先を導く、誰かの意志/その存在への希望を感じながら。


つまるところ、僕にとって、シンフォニック=レインとは、僕の生きる世界そのもの、その写し鏡なのです。そしてさらなる繰り返しになりますが、やっぱり世界には奇跡は存在していないのです。僕の知る限り。