シンフォニック=レイン

シンフォニック=レイン DVD通常版


たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、
愛がなければ、私は鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、予言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、わたしは何ものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、
愛がなければ、わたしにはなんの益にもならない。
――コリント人への第一の手紙


シンフォニック=レイン』という作品の抱えるテーマとは何だったのか。それは「嘘」でも「偽り」でもなく、「奇跡」でもなく、まさしく『愛』そのものである。真理が正統性を失い、目指すべき方向は定まらず、呆れるほどのニヒリズムに満ちたこの世界においては、ただ『愛』、ただそれだけが、我々が信じるべき全てなのだ…。
さて、このようなことを言葉で書いたところで、誰が「その通り、愛が全てだ」と頷くだろう。言葉はあまりにも真理からかけ離れていて、ゆえに言葉ではけして書き表せないものは確かに存在する。
たとえば圧倒的な感動を、嬉しさと悲しさの入り交じったこの物語の結末を、我々はどのように表現すればよいのだろうか。「感動」? 「素晴らしい」? 「痛い」? どれも何かが、絶望的に違う。言葉では語れないものは、間違いなく存在する。



だからこそ『シンフォニック=レイン』の語り手は、このほぼ言葉だけで織りなされる世界において、あえて最後の物語を語らないことを選択した。しかしながら、その物語の存在、それ自体は、あまりにも明白に語られている。つまり、ある結末のみで「ゲームクリア」とトルタに叫ばせることによって。そこには当然、この疑問が生じる余地がある――「なぜ他のエンドはゲームクリアと叫ばれないのか?」。この疑問を解き明かすことこそが、語られなかった最後の物語の目標であり、その物語を読み解くことは、『シンフォニック=レイン』を構成する全ての物語に、ある規則性を与えるだろう。そこで初めて、それらの物語は、ただ一点に向かって集束する構造を持ちうる。つまり「クリスの本当の想いはどこへ向いているのか」、それを解き明かすこと、それが最後の物語の与えてくれる目標なのである。*1

もちろん、この問いの答えは明白だ。なにせトルタエンドのみが「ゲームクリア」なのだから。明白だが、それはおかしい。おかしい気がする。なぜならクリスが好きなのはアルではなかったのか? なのにトルタが好きだなんて、あまりにも妥協的過ぎるのではないか。こう思わせてしまうところに、『シンフォニック=レイン』の語り手の業の恐ろしさがある。この物語には数多くの嘘つきが登場したのだが、その内最も嘘つきだと思われているファルシータは、その実最も嘘が下手である。つまり、彼女の場合、破綻が目に見えているから嘘つきだとわかるのであって、嘘だとわからなければ嘘つきだとも言われないはずなのだ。一方トルタは3年間もクリスを騙し続けていた大嘘つきだが、あまり嘘つきだとは言われない。かくのごとく、真実、一番の嘘つきは、おそらく最も嘘からほど遠く見える人物でもあるに違いない。

それは誰か。もちろんクリスである。これが答え。逆から言えば、トルタエンドを除く他の全てのエンドは、クリスが自らの本心を(自覚しているか否かは別として)偽ったままだからこそ、「ゲームクリア」ではないのだ。ではトルタエンドは、クリスが自らの本心に気づくエンドであったのか? 少なくとも結果として、クリスはトルタと結ばれた。しかし、それが必然であったと自覚しなければ、意味がない。そして残念なことに、クリスがそれを自覚したかどうか、今の時点で私には自信がない。付け加えるなら、フォーニ=アルがトルタパートで果たした役割もまだ判然としない。だが、彼女は間違いなく重要な役割を遂行しているはずなのだ。それは「アルのおかげ」のはずなのだ。

だとすれば、フォーニエンドというパートは、『シンフォニック=レイン』を結末=「ゲームクリア」へと導くために、クリスではなく我々に向けて語られた、最後の目に見える物語であったと考えるべきなのではないだろうか。つまり、”最後の見えない物語”は、我々の心の中でのみ展開する。そしてフォーニエンドの否定を通してのみ、我々はトルタエンド、すなわちこの物語の結末の持つ真の意味、混じりけのない喜びに行き当たることができる。トルタパートでは、クリスは今、誰が好きなのかが開かされた。フォーニパートでは、クリスとトルタのことを強く想うアルの心が明かされ、そして最後に、なぜクリスは本当の心を隠し続けていたのか、という疑問が呈示される*2

そうして考えてみれば、トルタエンド以外の彼の行いは全て、『愛』ではなく、「許し」であったことに気づくだろう。許しとは、相手より優位に立って行うもの。アルを選んだ時以来、彼は常に、”横に並んで歩けない”人間を、”一歩下がってついてくる”人間を、トルタ以外の誰かを選び続けていた。端的に言えば、クリスは”対等の恋愛”が怖かったのだ。彼はずっと”子供のように体を丸めて”、おびえ続けていたのである。それはなぜか。彼はとても臆病で、『愛』を信じられなかった。なぜなら『愛』とは自分のすべてを相手に投げ出すもの。受け止めて貰えれば良い。だが、もし拒絶されたら? 『愛』は恐ろしい。だからこそトルタからの告白がなければ、クリスは彼女に「愛してる」とさえ告げられない。ともあれ彼が『愛』を信じて初めて、『シンフォニック=レイン』という物語は結末を向かえることができた。だが、ああ、それでも、「愛してる」と最初に口にしたのは、クリスではなく、トルタであった。クリスは最後まで役立たずである。

だから結局のところ、この物語は、我々自身に向けて語られているのだ。嘘や虚偽に満ち、確かなものもなく、ひどく価値の定め難い”あの世界”とは、つまるところ我々の生きる”この世界”に他ならない。トルタの歌が願った通り、人の心はさっぱりわからない。人間関係はファルの言う通り、ただの取引関係にも見えるし、リセの言う通り毎日はつまらなくて、明日を信じて生きていく他に楽しみはないかもしれない。そのくせ明日は来るかどうかもわからず、戻りたい過去とも、目指すべき確かな未来とも断絶された我々にとっては、まさしく「今が全て」なのである。こんな残酷な、虚無的な世界に、何か少しでも信じられる、いや信じるべきものはあるだろうか。この極めてオーソドックスな問いに対する『シンフォニック=レイン』の答え。それこそが、トルタのあのセリフである。


ごめんなさい。ほとんど全てが、嘘なの。でも、これだけは信じて。
私はトルティニタ。そして、あなたのことを愛してる。
それが全て。


結局のところ、<これこれのものはこうであると私は信ずる>という価値評価こそが、<真理>の本質にほかならない。そして何ものかが真なりと思いこまれざるをえないということは必然的であるが、これは何ものかが真であるということではない。我々はそんな真理によって没落してしまわないために、芸術だのなんだのといった慰めを持っているのであり、そしてたぶん、それらすべてによって没落してしまわないために、『愛』を持っているのだ。

*1:この文章は通常版を元に書かれたものであり、『愛蔵版』においてはこの要素はカットされている。

*2:気をつけて本文に目を通すと、要所要所で本心を明らかにしようとしない彼の姿が見いだせる。「と、思うことにした」「考えないことにした」ecc.