目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

シンフォニック=レイン DVD通常版
グレゴリオ聖歌のモノフォニーに不満を感じ出した西洋の音楽愛好家たちは、聖歌を下歌にしてもうひとつ上歌をつけた。そして、この2声にもうひとつ上声を加えたときに、面白いことが起こった。この3声はあるときに協和し、別の時には不協和になる。それならばこれを意識的に操作してやろう、という試みが当然ながらはじまる。また、楽曲は3声である必要はないのでさらに声を増やそうという者が出るし、あるいは支えの下声そのものに手を入れようとする者も現れる。もちろん、長い時間をかけて。 

石ケ守諭邦 『ゴシック期の音楽 』 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000065E6R/


クリスとトルタ、二人の視点で語られたda capoとal fine。この二つの物語を普通にクリアしただけでは、クリスの本当の気持ちに気づくことはほぼ不可能だ。実際に、当初、al fineまで読了した読者にとって、真トルタエンドとは極めてほろ苦い、いわば妥協的な結末だと感じられてしまい、本来あるべきベストな結末=グランドエンドとして、フォーニエンドが強く要求/認識される。しかしながら、そのエンドは、そのはずなのに、あまりに違和感に満ちていた。この不協和の追求は、我々がこれまで何気なく眺めてきたこの世界を、物語を、テクストを、あらためて”読む”ことを要求する。数多の「なぜ」をくぐり抜けた先に、「そもそも嘘をついていた誰か」あるいは「嘘などついていなかった誰か」の存在が明らかになり、この時初めて、全ての物語の存在自体の意味が、『シンフォニック=レイン』という世界の語る主題が、明確に示される。かの「グランドエンドの存在」という疑問、それ自体を通して、すべての物語はクリスの物語へと集束する。フォーニという存在があってこそ、フォーニエンドへの疑念が生まれてこそ、「私たちの中で」、クリス(とトルタ)が、この物語が、「本当に幸せな結末」を得たことが、逆説的に確信されるのだ。フォーニエンド。それは第三の光であり、第三の声部であり、そして確かに、最後の物語なのである。