愛がなければ、全ては空しい

トルタエンド以外のクリスの選択は、常に彼に「許し」という行動を行わせていたことに注目してください。例えばファル。例えばリセ。フォーニエンドの描写さえも、『愛』ではなく、「許し」なのです。クリスはトルタとの『愛』を選ばず、常に「許し」を与える側になろうとしていた。そもそも3年前、彼は”横に並んで歩くトルタ”ではなく、”一歩下がってついてくる”アルを選んでいます。彼は、いつも、恋人より優位に立とうとしているのです。それははたして、『愛』なのでしょうか?

『愛』とは全て相手に投げ出し、与えること。これはとても恐ろしいことです。だって、相手が受けとってくれないかもしれないわけですから。自分の全てを投げ出して、投げ捨てられたとき、それはある意味「死」です。あまりに恐ろしい。それ故に、クリスはずっと、『愛』から逃げてきたのです。「許し」続けてきたのです。そしてal fineで初めて、彼は『愛』を”受け入れる”(この臆病者!)ことができた。――ああそれは、何という高慢。高慢こそ、人の最も深いところに存在し、最も発見しづらい罪。それは人を楽園の外に追いやった、人の最も古い業です。
その罪は、アルによって購われた――彼女の、受難と死と復活によって。
つまり、ここに来て、ファルやリセといったいわゆる「グッドエンド」が、なぜあんなに「違和感」に満ちていたかがわかります。それらは確かに、「バッド」ではなかったかもしれない。その意味では確かに、「グッド」だったのかもしれない。リセは回復したかもしれない。ファルの言葉は正しいかもしれない。しかし、それらは間違いなく、「空しい」のです。そこに、『愛』がないから。愛がなければ、全ては空しいのです。