主観アイマスMADの思い出妄想

 僕がアイマスにはじめて触れたのがたしか2007年の秋で、9月末かそこらだったのではないかと思われる。あとで知ったのだけれども2007年といえばニコマスの一回目のクライマックスの年で(当時はまだアイマスMADという呼び名が多く見られた)、現在でも伝説となっているような多数の名作が夏ころまでに投稿されて、ニコニコ動画を彩っていた。

 ニコニコ動画には当初のアングラ感覚が辛うじて残っていて、アイマスMADにも八頭身モナーめいた粗いフラッシュ動画があるかと思えば、メチャ高いソフトという認識しかなかった動画編集ソフトで作られたと思しき作品もあり、作り手も視聴者もコメントでわりとワイワイやっていた。捨て6という名前で有名な動画投稿スペースstage6がまだあった頃で、ニコニコ動画の画質で我慢できない人はここへ見に行っていた。高画質はそれだけで魅力だった。

 アイマスファンの期待とオタ芸に対する賛否と、当時はまさか広告業界の資金が流入してるだなんて思われてなかったまとめサイトの煽りで注目を集めた公式の続編ライブフォーユーが見事な空振りに終わった一方で、映像屋のわかむらPの台頭が目立ったのが2008年初頭、というイメージである。素人目にも圧倒的な映像とキャッチーなミックスで登場直後からファンを得ていた彼だが、見る間に周辺を組織化してアイマスMAD界隈をニコマスP集団として再定義した。

 というわけで2008年のニコニコ動画アイドルマスターMAD界隈はニコマスという名前一色で塗られていて、僕を含む一部のファンからは皮肉を込めてパクスワカムラーナと呼ばれる。素晴らしいエンターテイメント、素晴らしいショウだった。今思い出しても背筋が震えるような毎日だった。単品のゲームとしては物足りないライブフォーユーも、アイマス映像素材集としてはいまだにこれを越えるものがない。続々投入される新技術と機材。ニコマス作品は高画質で当たり前だった。

 ファンの期待に応えて日に日に高度化する作品作りは、制作者サイドに脱落者を出しながら、アイマスMAD制作者であるPから恐れ多くも下賜される作品を一般視聴者が押し戴く構図に結実した。技術的淘汰とニコマス政治力学を生き延びた花形Pたちはいよいよ視聴者からの崇敬の対象であって、ニコマスは貴族的義務感と貴族的高慢さを併せ持った彼らの社交界であった。アイマスMADという呼び名は廃れて久しく、ニコマスは彼らの庭であり、ニコマス作品は彼らのプライドだった。

 さすがにニコマスにも翳りが見え、スターダムにひた走る初音ミクとの差が露わになるのが2008年後半である。わかむらPのもたらした技術革新も日常に溶け込み、公式からの素材の援護射撃も途絶え途絶えになった。ニコマスの牽引した画質向上がニコニコ動画全体に波及し、映像美はアイマスの独壇場ではなくなった。初期からの著名なPの多くが一線を退き、元老と名乗ってニコマスへの影響力を保持した。

 聞かせる意図はあっても聞かせる気持ちがないとこうなるの見本のような記事を僕が書いたのが2009年の梅の咲く頃。諸兄は努々道を誤らぬよう祈り申し上げる次第である。当然提案はなんら意味を持たなかったし、またニコマスの栄華も戻らなかった。僕も書くの飽きてきた。それより今週の少年ハリウッドくそ面白いんですけど。