リエントリー

 僕にアイマスを教えたのはアイドルマスターMAD(以下アイマスMAD)でした。実際、2007年のアイドルマスター(以下アイマス)の躍進に最も貢献したのがアイマスMADであろうことには、皆さん異論のないことと思います。

 アイマスMADには、アイドルの魅力が詰まっている。歌って踊るポリゴンを心底愛しいと感じた人々が、その可愛さ凛々しさ面白さを最大限に表現し、広めるために始めた創作ですから、それも当然のことでしょう。

 多くの人が、アイマスMADを通してアイマスに触れ、惹かれ、ファンになった。ある人はブログを始め、ある人は制作側にまわり、ある人はゲームを楽しむようになった。アイマスMADには、確かにその力がありました。

 膨れあがるファン総数と活動。ニコニコ動画界隈でのアイマスファンの様々な活動を総合する概念として「ニコマス」という呼称が一般化し、一大勢力を形成していく。「箱○を買わないのは邪道か」という論争も起こった程です。

 あんまり界隈が楽しいものだから、それだけで十分満足だと発言するニコマスファンに対し、それは本当のアイマスではないとする人々が憤慨したことで起こった事件は、比較的長く尾を引きました。しかし、近頃この論争は聞かれません。

 あれほど何度も荒れていれば発言自重の流れになるのも当然ですが、どんな界隈でも一定の比率で口を滑らせるおっちょこちょいは存在します。もちろん、ニコマスファンが全員箱○を買ったとは考えにくい。

 果たして、ニコマスだけで良いと主張していたファンたちは、一体どこへ行ったのか。


ニコマスと団結
 ところで、そもそもニコマスという呼称は、アイマスではない、ニコニコ動画の上に展開される疑似アイマスが好きな連中、その連中の有り難がる作品群、という意味で、当初侮蔑的なニュアンスさえ持っていたのは事実です。それが現在のように、コミュニティの誉れ高き自称となって行くのは、恐らく2007年後半以降のこと。

 第一期アイマスMADブームを代表する制作者数名が同人活動を試み、そのために内外の激しい非難を浴びて失脚、ニコニコ動画を去ったのも、ちょうどその頃でした。外野の悪態などどこ吹く風、お祭り気分の日々を送っていたニコマスファンは驚愕し、行動に出ます。界隈の活力として多数の紹介ブログが立ち上げられましたし、制作者側からも、交流の活発化と技術の共有による作品レベルの底上げが図られました。

 結果として界隈の結束は深まり、アイマスMADはより高度なものになっていきます。事件前後に人気を集め、幾度もリメイクされた『団結』という主題は、それを象徴していましたし、だからこそ、今でも同曲に強い思い入れを持つファンは多いのです。団結は危機を皆で乗り越えた記憶であり、もはや帰らない日々の残り香であり、自負の根底に流れる強烈な帰属意識となって、今もニコマスを強く規定しています。

 その団結MADに先鞭を着け、不朽の足跡を刻んだのは、如月千早を熱烈に愛するファンとして、千早病三銃士の異名を取る影山Pでした。彼が10月19日に発表したその作品は、普段アイマスMADを見ない層からも好評を集め、約6分間という長尺にも関わらず、最終的に30万再生を越えるヒットとなり、・・・そして2008年6月5日、権利者削除によって姿を消しました。八ヶ月間の様々なドラマを飲み込んだ、約5万を数えるコメントたちと共に。


僕はアイマスファンです
 現状、アイマスMADを見る層はほぼ固定化され、その数はおよそ2万人弱ではないかと考えます。決して少ないとは言えない数であり、そのクオリティもまた、精鋭と呼ばれて恥じるものではありません。それでも僕は不満なのです。新しいファン開拓は急務だと考えるのです。

 なぜなら僕はアイマスが好きで、僕をアイマスに引き合わせたのはアイマスMADだからです。アイマスMADを楽しめば、誰でもアイマスファンになる。アイマスMADファンは常に増えることが望ましい。そのためには外部への働きかけが、少なくともその意志が必要だ。

 その意味で、薄々お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、僕はアイマスニコマスコミュニティよりも上位に置いています。アイマスMADがアイマスを広めるのに最も効果的なメディアであることは事実で、だからこそ僕はアイマスMADにもっとアピアランスを期待します。

 白状しなければならないでしょう。アイマスファンの創作の集合としてのニコマスには興味があっても、コミュニティの存続を願うこと自体には興味はありません。自らのブログを見る専ブログと呼ばれたくないのも、それが理由の一つです。

 けれど、ニコマスコミュニティには、いや、おそらくニコマスコミュニティだけに、アイマスを世に広める力があります。なぜならニコマスコミュニティの駆動原理は、当初からずっと変わらず「俺の可愛いアイドルはDo-Dai?」であり、そして、その思いが形を取ったものは、ニコマスコミュニティの他には存在しないから。

 僕はアイマスMADに大きな借りがあります。そして、おそらく今となっては、ニコマスコミュニティの多数の人々が僕を嫌っているとしても、僕はニコマスの活動に大きな感謝と、大きな尊敬と、大きな憧れを抱いています。僕には出来ないやり方で、僕にはできない成果を残している人々、それは僕にとって、十分に尊敬と感謝を捧げる価値を持ちます。

 僕はこれまで、一体何人の人々にアイマスを広めたか。僕の記事たちは、どれほどの力を持ったか。それを思うと、僕は無力感に苛まれる。僕にはできなかった。これからも出来ないかもしれない。僕には羨ましい。アイドルを踊らせる力を持つ人々、アイドルを描く力を持つ人々、アイドルを歌わせ、アイドルを魅力的に語り、界隈のあれこれを描く人々、そういった、僕をアイマスに引きずり込んだ、全ての人々が。


 僕の主張は「アイドルマスターをもっと広めたい」というモチベーションに基づいています。だからアイマスを紹介する記事をこれまで書いて来ましたし、これからもそのために書くでしょう。

 無力だとしても、僕にはそれしかできないからです。


帰着
 あらかじめ結論を述べておきます。アイマスMADは、あるいはニコマスは内向きで良いのだとする主張は、三重の意味で致命的です。まず、それは界隈の漸進的縮小を招き、自滅に向かう行為であること。次に、「アイマスの売上に貢献する」というアイマスMADの大義名分を失うこと。そして何よりも、アイドルを広く一般にアピールする意思を否定した時、彼は既にプロデューサーではないこと。アイマスMADは、ニコマスは、絶対に内向きであることを肯定してはならない。

 加えて、今回の記事に関する「ならお前が作れ」という反応はご容赦ください。以下は先日の記事に貰ったトラックバックの一つからの引用です。

制作者が批評家の意見を受け入れるかどうかは製作者の自由で、強要されることではない。
それと同じことが批評家にも言える。
 批評家ってなんじゃらほい
 http://henahena.moe-nifty.com/blog/2009/02/post-5270.html

 僕は自分を批評家だと思ってはいません。しかし、ブログという作品で自分の意見を具体化するものとして自負しています。言論という作品を生み出し、それを客観的に評価されるもの。つまり、舞台は異なっても、アイマスPと対等の立場であると表明しているわけです。だからこそ、(ニコマスを取り巻くあらゆる)書き手に対する「なら作れ」という発言は、例えば僕が先日「アイマスMAD作者は、外向きの動画を作れ」と命令したのと同じ程度に筋違いな行為です。どうぞご理解ください。

 そう定義する以上、自分の作品には責任を持つべきですし、意見の具体化に、すなわち意図の伝達の失敗は、制作者としての敗北に他なりません。「何が言いたいのかは分からなかったが、とにかく腹だけは立った」と複数の声をいただいた以上、仕切り直しは誇りをかけて行われるべきです。許されることならば。


目的は何か
 僕がここであらためて行う主張は、アイマスMADの先行きがこのままでは危ういという危機感の公表と、従って生じる幾らかの提案の検討です。具体的には、アイマスMADがランキングに登場しないことに象徴される、アイマスMADの外部への訴求力喪失に対する危機感と、今これから僕らは何ができるのか、何をするべきなのかについてのアイデアの論述です。

 僕はこの文章で、アイマスMADが人々の耳目を誘うことを至上命題としています。しばしばランキング厨、あるいは再生数至上主義者であり趣味作品を否定しているといった批判をされますが、現状、多くの人の目に触れる機会はランキング以外にないのですから、なるべくこれを利用したいという趣旨であって、低視聴数作品の否定ではないことを理解下さい。

 また、目的のためにならどんな不愉快な手段であっても利用すべきだと主張しているわけでもありません。目的は手段を正当化しません。趣味の世界であるニコマスに、そのような強制ができるわけがないことも理解しています。

 訴求力低下の原因が何なのかについては、仮説を述べることしかできません。また訴求力低下という前提もまた、何らかの手法で証明されたものではありません。だとしても、現状に若干の不安を抱く人は少なからず存在していると信じます。

 そしてこれが、冒頭においた一節の末尾への、僕なりの解答です。ニコマスは彼らの話題に上らなくなった。


 以下、論点を分かりやすくまとめてくれているGeistPの記事を参考に(ありがとう、心から感謝している)、先日のエントリーの読解を進めたいと思います。顔と顔を付き合わせて飲むような友人達からも「あの煽りが何もかもを台無しにしている」との言葉が返ってきた以上、僕の文章は煽りだったのでしょう。今後の課題と言えます。

はじCさんの記事はなぜ炎上したか
http://geist63.blog39.fc2.com/blog-entry-57.html


論点1:ニコマスはつまらないジャンルだと思われている。
 あるいはジャンルとして飽きられてるのだ、という意見もあります。何にせよ、ボカロや東方関連作品がほぼ連日上位を競っているのとは対照的に、アイマスMADをランキング上位で見かけることは稀です。そして、このことは、自分の属するジャンルを強く意識せず、人気作品を無差別に視聴する一般層に対して、アイマスMAD世界への扉が閉ざされてしまうことを意味します。

 仮説として挙げられるのは、ランキングに登場する作品がPVに偏りがちなアイマスMADは、ライトユーザー層に食傷感を与えてしまっており、彼らがアイマスMAD全体を無差別に回避する傾向を生んでいる。その結果、アイマスMADはたとえランキングに載っても一般層に視聴される可能性が低く、結果としてランキングでのサバイバルに失敗するのだ、というもの。しかも稀にニコマスファンの後押しを受けてランキングに生き残った場合でも、それがPVである確率が高い以上、ますますライトユーザー層のアイマスMADに対する先入観を強化してしまう。
 この仮説は、アイマスMADファンに対する絶望的な仮説だと言えます。自分たちが最も望むものこそが、自分たちのアイドルを最も可愛く、魅力的に見せようと努力することが、皮肉にも、一般層の離反を進める最大の原因だとしたら。
 僕はこの問題に対して明確な回答を持ちません。アイマスMADは趣味で製作されており、それぞれが好きなものを作ることが前提である以上、PV以外の作品を作れと言えないことは明白ですし、そして僕自身、美しいPVは嫌いではない。むしろ、素顔のアイドルたちを魅力的に描いたガチPVが、ランキング常連に返り咲くことを心待ちにする類の人間です。
 もし曖昧な提案が許されるのであれば、何か少しでも、そこに他ジャンルの、あるいは一般層の人間を引きつける要素、隠し味が仕込まれることは、地味に効果をもたらすのではないかと考えます。ただし、実は、それにも既に回答が寄せられているのです。「Pはそれぞれにアイデアをひねって隠し味を仕込んでいる。ただそれに気付いて貰えないだけだ」・・・。
 僕からの返答は、それでも、真意に気付いて貰えないなら、それに気付いて貰えるまで、試行錯誤しながら行動するしかないのではないか、というものになります。もちろん、強制は出来ません。ひとえに作り手としての矜恃に問うだけのことです。
 あるいは、以下でもう一度触れることになるかとは思いますが、コメントの持つ力を利用することです。オフラインのPVは何度見ても同じPVですが、ニコ動の上のPVは、コメントによって見る度に顔を変える可能性を持ちます。コメントは作品の状況を意識的に変えることができる数少ない手段の一つです。コメントアートが見られなかった時に僕らが抱く失望感は、それを最も如実に示すでしょう。


論点2:「つまらない」というのは、「バラエティとして面白くない」という意味だ。「バラエティとして面白い」動画が必要だ。
 もしもライトユーザー層がニコマス=PVとして飽きているのだとしたら、対処法はPV以外の作品もランキングに登場させる他ない。しかし、ならばどうすれば良いのか。上述の通り、明確な答えは出ません。しかし、全ての制作者がPVを最大に愛しているとは限らないのと同様に、全てのニコマスファンがPVを至上と考えているとも断定できません。事実、例えば近頃人気を集めるノベルズマスター系作品に見られるように、PV以外の需要は十分にある。また、ミクミクダンス系列でののワさんが活躍していることに見られるように、アイマスと他ジャンルのコラボは、双方のファンを惹き付ける力を持ち得ます。

 アイマスMADに多様性の可能性は十分に存在する。この点は、まさに先日のアイマス新年会において実践された、コラボレーションと多様性の動きに強く期待できるところです。例えニコマスファンの大半がPV好きであり続けても、ニコマスの主流作品ではなくとも、他ジャンルや一般層の人々の間で勝手に人気を集めるような作品は生み出されることができる。

 そのためには、アイマスMADの前提である、「好きな人が好きなものを作る」の過激化を進めることが解答となります。どんな突拍子もないものであっても良いから作り、そして面白がって言いふらす姿勢の徹底こそが、あるいは多様性やバラエティの、すなわちバリエーション豊かなニコマス界隈を加速させ、「ニコマスにはPVしかない」という誤解を解く鍵となるでしょう。

 もちろん、「そんなことは既にやっている」という返答は予想できます。それに対し、僕は、「足りない、もっと」と答えるしか言葉を持ちません。この言葉は同時に、僕も含まれるニコマス視聴者側にも、あるいはより重大なプレッシャーを持って語られるべきかもしれません。ニコマスファンが2万人いるとして、一つの作品に一人が一つずつコメントするだけで、2万件のコメントが寄せられることになります。これは、MAD作者に大きな喜びをもたらし、視聴者同士での盛り上がりを演出するだけでなく、ニコマスファン以外の人々に、「なんだかコメントが多くて楽しそうだ」と視聴を促す力となるでしょう。


論点4:「楽しい」が必要だというのは、たとえば「コメントの余地のない完璧な動画」でなく、「思わずコメントしたくなる」動画が必要だということ。

 論点3の内容に繋がりますが、この段において僕は特に、コメントアート(CA)の有効性について主張しようと思います。それに先だって、先日itachiPが投稿した作品、『アイドルマスター meets PerfumeDream Fighter” (IM@S EDIT)』におけるCA職人の仕事と、それに対する視聴者の賞賛のコメントを心から褒め称えたい。僕はこのシーンを見て、心から感動しました。
 実際、CAに対する賞賛コメントそれそのものが、CAを過去ログに押し流す原因になるとしても、好意的な反応があり続ける限り、CA職人はきっと再び、より技巧を凝らしたCAを投稿してくれるでしょう。訳知り顔に付け加えるなら、彼はもっと派手な演出も可能だったのです。しかし、MAD自体の魅力を前面に押し出すために、常に控えめなCAに留めていた。その職人魂、見事と呼ぶしかありません。

 本題に戻りましょう。この段で僕が主張したいのは、弾幕さえも含めて、CAは常に評価されるべきだということです。確かに、唐突に訪れる弾幕、のべつ幕なしに流れ続ける長文定型コメントの群れの意味が分からず、当惑し、不愉快に感じる状況はあり得ます。しかし、たとえそれが条件的なものであったとしても、コメント規制の風潮は、結局のところ全員の沈黙を呼びます。

 なぜなら、「うざい」というコメントに反応することは、ニコニコ動画で最も避けられる行為だと考えられており、実際、全く動画と無関係なレベルで繰り広げられる罵倒合戦を回避するために、(NGリストに上限が定められている現状——僕はこの状況を極めて遺憾に思う。なぜNGリストに上限が必要なのか。運営は動画を論戦で埋め尽くしたいのか、鬱陶しいコメントに我慢しながらの視聴という苦行を視聴者に与えたいのか。あるいはコメントオフを推奨しているのか)視聴者のできることは、ただ一つ、コメントをオフにすることのみです。

 ニコニコ動画の魅力がコメントと動画の共演である以上、コメントを消さざるを得ないような状況の成立は、普通誰だって回避したい。視聴者の多くが当然そう考え、行動する結果、「うざい」コメントが付けばどこでも、それがどんな内容であれ、「うざい」は画面の覇権を獲得し、結果、コメントは自粛される傾向になるのです。

 視聴者は努力して自重せずコメントするべきだと上述しました。それに応え、制作者には、コメントを奨励し、必要であれば保護さえする姿勢を期待したい。それが結局のところ、コメント同士の盛り上がりを演出し、ニコニコ動画に僕らが惹き付けられ続けている、ただ一つの理由、楽しいバカ騒ぎに繋がるのです。

 ひろゆきも言っていたように、作品自体が興味を惹くものでなくても、コメントのためにそれが予想を超えたエンターテイメントになることはあり得る。この言葉は、アイマスMADの世界において、特に強く示唆的だと考えます。

 CAは、たとえそれが失敗していたり、場にそぐわないとしても、何があろうと保護されるべきです。投稿者コメント欄にただ「弾幕楽しい」と書くだけで、動画はきっと盛り上がりを見せるはずです。もしも万が一、どう考えても場違いであったり、嫌がらせとしか思えないCAが入った時は、投稿者権限で削除することも良いでしょう。けれどそれは、もしも善意のCAであった場合、彼に強烈な失望感を与える危険性と、他のあらゆる場面においてCAを自粛する風潮を醸成する危険性を孕むことも、理解されるべきでしょう。


 参考。MCFPの編集による『アイドルマスター Princess Bride!のCAをまとめなおしてみた(アレンジver)』。CA職人の情熱と超絶技巧がアイマスMADを彩った時代は確かに存在しました。こうした複数のCAが、入れ替わり立ち替わり作品を演出することで、視聴者はいつ何度同じ作品を訪れても新鮮な驚きと興奮を味わえ、運が良ければ職人のリアルタイムの作業に立ち会うことさえできたのです。失われるべきではない文化だと固く信じます。


論点5:「バラエティとして面白い」MADが減っているのは、内輪での「凄くてかわいい」への評価が高く、製作者がそれを意識しすぎるからだ。

 この段に対する意見は、本論に入る前に既に述べて来たと考えます。僕にはこれをどうこうする力も権利もない。しようとも思わないし、むしろ凄くて可愛い動画は好きです。そして僕が伝達に失敗した、この部分での真の主張は、「ニコマスが内向きであるという姿勢の肯定だけは、絶対にしてはならない」ということに他なりません。


 そう、たったこれだけ。
 これだけのことを伝えようとするために、あまりに大きな犠牲を界隈に払わせてしまったことを、僕は謝罪しなければなりません。また、特に「誰々一選」企画に応募していただいた皆さんに、深い失望と怒りとを与えてしまったことを。僕のやり方は間違っていました。謝って許して貰えるとは信じていませんが、精一杯のけじめです。本当に申し訳ありませんでした。

 もちろん、僕の目的がアイマス普及にあると宣言する以上、そもそも前提から意見が合わないとされる方もいらっしゃることでしょう。それらの人々に、僕の価値観を押しつけるつもりはありません。これは、僕の視点と意見の展開に過ぎない文章です。

 けれど、もし、この記事が少しでも、アイマスMADの復権と、界隈の活性化に向けた模索の助けとなれば、この上ない喜びです。


謝辞
 このエントリーを挙げるにあたり、先日の無様な有様に叱咤激励をくれた友人達に感謝する。前回のエントリーを読み、様々な反応を返してくれた皆さんに感謝する。当該記事のコメント欄、そしてトラックバック元は意義深い情報や提案や罵倒に溢れている。また、不用意な引用で理不尽に被った迷惑を咎めようともしなかったDikePに、深夜のtwitterで真摯な言葉を寄せてくれた諸兄に、多数の助言や示唆を与えてくれた木曜洋画劇場Pに、そして何よりも、この長い文章を、投げ出さずに最後まで読んでくれたあなたに感謝を。



 アイマスも、ニコマスも、いつか終わる。ただ、それは今ではない。
 2009年、誕生日に。