結局自分をdisる

哲学は自己自身が本質的に未確定なものであることを知っており、善良な神の小鳥としての自由な運命を喜んで受け入れ、誰に対しても自分のことを気にかけてくれるよう頼んだりもしなければ、自分を売り込んだり、弁護したりもしないのである。哲学がもし誰かの役に立ったとすれば、哲学はそれを素直な人間愛から喜びはする。しかし哲学は他人の役に立つために存在しているのではなく、またそれを目指して期待してもいない。哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、その生命は自己自身と戦い、自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう要求することがあろうか。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫

浩瀚堂粋記集 2007-07-09 「時代状況と思想について」より。
http://d.hatena.ne.jp/koukandou/20070709#1183972556
 この人の言うことはただ長いだけでなく一々皮肉がたっぷりで、しかも、万が一彼の言うことを素直に聞いてしまうとはてな界隈のもったいぶった話題の98%がただの暇つぶしに過ぎないことになってしまうのでむちゃくちゃ面白いにもかかわらず実に人気がない。

 引用の部分は哲学についての言及ではあるけれど、実のところは「あんたら自分の足下さえ覚束ないのにどんな顔して人の尻を拭こうとしてんのさ」といういかにも哲学者風のイヤミである。彼は教養人なので色々勉強してこんな風に日々警句を発しているのだけれど、あいにくイヤミが上手すぎて炎上どころか通じる気配さえなく、最近更新してくれない。みんな釣られてください。ともあれ。


 最近界隈の良心的な人々の間にさえ流行しつつあるように見える、自分の考えに都合の良い何らかの学術理論をもって自分の理論の正しさを主張するというネット一流の傾向について懸念があります。学問は本来各々の前提を疑う体系であって、別の体系のそれを説明したり証明したりすることを目的とはしていませんから、これは結構危険な行為です。

 どんな文脈でも肯定的に使用可能な理屈があるとすれば恐らくそれは宗教に他ならず(半分だけ皮肉)、気をつけるべきは「自分の考えの正しさを確信するために学問を援用してはならん」ということに尽きるでしょう。逆に自分の主張を疑い、それを質し正す手段としてなら借りてきた学問には意味があります。

 ただし、ある学問に照らして自分の考えを疑うためには当然ながらその学問体系について深く学ばなければいけないので、ホイと本を一冊引き合いに出すという行為は無茶とは言わないまでも自分がIQ3,000の宇宙的天才だと信じている人以外は止した方がよいでしょう。

 ああ非常にいやらしい文章ができてしまった。白状しますと海燕さんの最近の記事に常々こんなことを感じておりました。そしたら今日は花見川さんまであんなことを言い出す。おそらく海燕さんは基本釣り目的の、花見川さんのは十分に深い背景理解に基づいた発言なのだとは思うのですが、素直な人がまるっぽ真似してしまうとまずいと思います。お二方とも影響力甚大なので。