哲学は自己自身が本質的に未確定なものであることを知っており、
善良な神の小鳥としての自由な運命を喜んで受け入れ、
誰に対しても自分のことを気にかけてくれるよう頼んだりもしなければ、
自分を売り込んだり、弁護したりもしないのである。
哲学がもし誰かの役に立ったとすれば、哲学はそれを素直な人間愛から喜びはする。
しかし哲学は他人の役に立つために存在しているのではなく、
またそれを目指して期待してもいない。
哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、
その生命は自己自身と戦い、自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、
どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう要求することがあろう

まったく同様にして黙示録は福音書に死の接吻を与えんがため、
新約のうちに挿入されねばならなかった

自殺とは絶望ではないのだ。それは度し難い憤怒なのだ。
輝ける生命に対する陵辱であり、嫉妬であり、憎悪なのだ。
それでも生き続ける我輩は己の我意が踏み躙られ引き裂かれるたびに、
本書と対話を試みる事になるのであろう。
福田恒存とロレンスの『黙示録論』とはそういう本である。
http://d.hatena.ne.jp/koukandou/20070519#20070519f3

浩瀚堂粋記集 07.5/19付記事より