とても長いエロゲのはなし

一昨日のストレス発散記事。説明もしないし根拠も言わないけど僕はそう思うんだ、という人を馬鹿にした文面のわりにはお叱りの声が控え目だったのはちょっと意外です。やはりみな多かれ少なかれ「何だかなあ」とは思っているのではないでしょうか。はっきり言ってエロゲにせよ漫画にアニメにせよゲームにせよ、あまりに制作者サイドのレベルが低下している。教養なのか意識なのか、ともかく何かもう絶望的に。


言い訳をするなら、僕はエロゲが大好きでした。それはエロさえ入っていれば何でもできたんです。本当になんでも。『ようこそシネマハウスへ』とか。クリスマスにサボテンを贈る。無駄に理由もなく仲が悪い。どっちみち死ぬ。エロ関係ないじゃん。なんだそりゃ。今となっては夢のよう。ああイー・シャン・テン。モッコリマンのナニでぬし釣り。僕はそんなこんな体験に引きずられて、まだどこかこのジャンルに期待しているみたいです。


だって月姫を生み出したのも、KANONを生み出したのも、君が望む永遠を生み出したのも、そしてシンフォニック=レインを生み出したのも結局のところエロゲという謎の培地です。もしこのジャンルがなければ、おそらくADVは『街』みたいなものとしてのみ存在し続けていたでしょう。美少女ゲームだってときメモ止まりだったでしょう。それらを悪いとは思いません。でも何かが欠けている。エロゲだけが辿り着いた地点は、確かにあると思うのです。


今となっては、何か変なことをするのにエロゲにこだわる必要はなくなりました。同人で出しても、それなりに手にとって貰える時代になってきましたし、反対にコンシューマーが『キミキス』みたいなのを出してしまう時代になった。妙な主張を展開したければブログでもなんでも書けばよい。みな暇を持て余しているから勝手に調べて勝手にリンクしてくれる。良いものであれば評価される。少なくとも過去よりはずっと。


それでもやっぱり、エロゲだけが積み重ねてきた記述スタイル、演出技法、構成やシステム、言うまでもなくテーマやその選好傾向。そういったある意味文化史のようなというか、それ自体の歴史を凝縮した体系というかスタイルというか、バックボーン、あるいは舞台装置そのものがエロゲには残っている。これは実際凄い遺産で、だからこそその上で適当にお為ごかしな話を展開してもそれっぽく見えるし、それなりに売れるわけですが。


でもいい加減みな気付き始めているのだと思います。さもなければ、そろそろ認めてもいいころでしょう。結局、先人が築き上げたごく高性能なエロゲジェネレータの上で、延々と繰り返される劣化コピーを見せられているのだということを。マスター不在のTRPG、筋も主題も何もない。書きたいから出すのではなく、出したいから書く。目的と手段を取り違えたスローガン。すべての人にエロゲを与えよ! はた迷惑なスターラーク本社。


エロゲというジャンルは、本来性処理のために生まれたのかもしれません。けれどそれ以上に、「語りたい」という強い想い、そしてそんな語り手たちの言葉を「読みたい」と願った読者の想いが、それを成長させていったのだと僕は思います。ゲームという名を残しつつ、現在それがごくシンプルなノベルの形を取っているのも、この仮定とは無関係ではないでしょう。そして「エロなくても良いよな」と言われる場合こそあれ、「AVの導入みたいなので良い」とは誰も言わない。


そんなお話たちがあんまり楽しかったので、僕たち読者は、彼らの多くが語り終わったことも、また彼らの多くが別の場所に語りに行ったことにも気付かなかったし、あるいは気付こうとしなかった。残ったのは大きな渇望の空白で、そこに流れ込んだのは、萌え産業とやらの正体不明な資本。代価と引き替えに穴ぼこを埋めてくれるはずのその工業製品は、けれどやっぱり、お話ではないからいつも足りなくて、上手い具合に次々量産されていく。


えらそうなことを言うつもりはありませんが、一度エロゲへの期待を捨ててみても良いんじゃないでしょうか。エロゲの95%はまごう事なきゴミである、なんていうどこかで聞いたような法則を机の前に張った上で、一作読み終わったあと「これは何が言いたいのか」なんて30分くらい考えてみる(「家族」とか「父性」とか、そんなキーワードだけじゃ駄目ですよ、「家族がどうなのか」「父性はどうなのだ」までしっかり)と良いでしょう。あらびっくり。どれもこれもアホみたい。


どうしようもない気分をしっかり味わった上で、他のジャンル、例えばラノベでも良い、アニメでも良い、世の中にはたくさんあるエロゲより安価な物語を眺め回してみる。こいつらもまあ90%は何とやらの類ではありますが、なんと言ってもエロゲよりは圧倒的に安い。それらに「何が言いたいのか」でびしびし駄目出ししているうち、時折「これはヤベえ」みたいな声がどこからか聞こえてくる。うまく行けば、そんな作品の中には「どうなのか」が30分では利かないものがあるでしょう。


その時こそ僕たち読者は、「書きたい」という想いが生み出した物語に出会えたことを知り、「読みたい」という願いが叶えられたことを感じて、言葉の世界の喜びにひたれるというものです。それはもうとってもとっても幸せな。そして本当はみんな、この喜びを知っている。ただ忘れているだけで、穴ぼこ埋めに夢中になっているだけで。知っているから読みたいと願ったし、まだ満たされていないことを知っているから、いつも次のそれを探し続けているのです。