美少女ゲームと視線

他者性の話に戻るなら(全くのところ、これはまごうかたなき思想の範疇なのではあるけれど――たまには素人エロゲ同人という失敗が語るという“皮肉”があっても良いだろう)、現実にではなく、例えば美少女ゲームという素材の中に他者を見出すその視線。

視線という言葉が好きだ。それは「自分」という見つめる主観座標の存在と、従って、見つめる対象に見えない影の部分が絶対に常に存在することを暗に示す。パラレル化したシナリオで喪失されがちな事実を突きつけてくれる言葉である。何かを見ているとき、僕らは何かを見ていない。

見落としがちなのは、視点、視線の持ち主、つまり自分自身こそ最も常に見えないという事実。それどころか、自分自身が「他者性」の中においての他者の一人であることさえ、しばしば僕らは忘れてしまう。自分の根源的な立ち位置について僕らはあまりに無頓着だ。