エロゲはなぜ神に近づくのか

萌え理論Blogさん 4/22付け
泣きゲにおける原罪としてのヒロイン」を読んで。
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060422/p4


先日の「おたく神学」とも密接に絡む話なのですが、エロゲーを含む近年の日本のおたく作品たちは、どういうわけか仏教化せずに、むしろ西洋の神、及びその存在を証明するために生み出された理論に近づいていっているように思えます。もちろん、味付けとして神道関係者・仏教関係者を登場させる物語はしばしば見受けられますが、その本質的なところでは間違いなく神学に近い。エロゲーはある意味でおたく作品を最も先鋭的に代表している(だってこんなのは日本にしか、そして我々の中心にしか存在しないし、できない)ものだと思いますから、ひとまずエロゲはなぜ、という題で考えてみましょう*1

ここでは「エロゲーは肉欲を扱うが故に神学化せざるを得ない」という理屈を考えてみましょう。現代社会においてもやはり、肉欲はタブーです。少なくとも正面からそれそのものを描くことはまだ許されていない。エロゲーはそのタブーを正面から扱うという意味で、この社会において存在そのものに原罪*2を抱えています。この構造は実にキリスト教の根源に近い。つまり、人間は肉体という弱さを抱えて生きていて、この弱さはどうにもならないのですが、神の恩寵+努力(後者は議論あり)でなんとかハッピーエンド(約束の終末)にたどり着けるでしょう。という具合。

エロゲーに置き換えてみると「エロゲーはおかずであるという原罪を抱えているけれど、作者のインスピレーション(神の恩寵)及び緻密な演出等(努力)で”ブンガク”になれる」というものであり、またsirouto2さんの言うところに従ってストーリーの面から見てみれば「ヒロイン、あるいは主人公は必ず過ちを抱えている/しでかしてしまうけれど、何かしらの奇跡と努力による試練によってハッピーエンドを迎える」というものでもあります。そしてこの構造は、結局のところ日本のおたく作品すべてに敷衍することができるでしょう。つまり、「おたく(日陰もの)だけどいつかメジャー(正義)に」という形に単純化できるのだ、という話です。


もっとも「じゃあ仏教的なものとは何だ」と訊かれたら困る、という点はあります。そもそも肉欲*3は仏教の観点からしてもそれほど褒められたものではないでしょう。「原罪」というキーワードでくくってしまうのは余りに乱暴だという意見もあります。案外、あまり仏教について知っている人がいない、というあたりなのかもしれません。実際、本屋でいろいろ探してみても仏教に関する適切な入門書というものが見あたらない。一見親鸞の思想は極めてキリスト教に近いように思えるのですが、そのあたり詳しく解説した本等ご存じの方がいらしたら教えて下さい、と話はずれまくり。それが仏教的ではなく、むしろ神学的だと主張できる根拠を示せという問題。

そして何より、そもそもどうしておたくの間でのみエロゲーが堂々と、しかも大まじめに扱われるのか、という本質的な問題。エロゲとAVは何が違うのかという問題でもあるのですが、何にせよおたくの作品圏は、その核心にエロゲーという妙な存在を抱えている。それは文字と静止画で展開される単純なメディアであり、本能的な性欲の充足をその根源としながらも、どういうわけかその内部に極めて「まじめな構造」の構築を渇望する――言い換えるなら「たしかな物語」を、あるいはそこに「始まりと終わり」の獲得を求めて必死に足掻いている、涙ぐましい世界たち。これはいったい何なのか。ここらへんをつつくためにおたく神学をぶち上げたようなもの。結局のところ、私はおたく作品の構造分析や歴史的変遷の追跡ではなく、「なぜそれがそのように必要とされているのか」ということの背景をこそ知りたい。

今やおたく作品たちは、明らかに物語として存在することを期待されています*4。しかし物語は、物語そのものとして存在するのではなく、著者が読者に語りたいモノの表出として発生し、また読者がそれを望むものとしてその存在が許されるモノ。物語は登場人物のためにあるのではありません。読者に向けて語られ、読者によって求められるものです。それを無視して、その世界や登場人物の分析のみを行う*5ことは、暇つぶし以外にはあまり意味がない。肝要なのは、その物語たちを、まさにここにいる自分たち自身のものとして、どのように解釈するか。それはつまり、おたく作品の存在論であり、同時に私たちおたく自身の存在論でもあります。

*1:つまり「おたく作品全般はなぜ」という疑問を極端化して考えている、と思っていただいて結構です。

*2:神さまが食うなと言った果物をムシャムシャ食べちゃったというアレで、「選択の余地があったのに、あえて絶対的に悪い方を選んだ」というもの。原罪という考え方はおそらく『奥義』(カトリック神学者達が千年以上かかって必死で考えたけれどまともな理屈が思いつかなかったので、「神さまが言うから絶対そうなんだ、信じろ」と開き直る際に使用される言葉。他にも三位一体、神であり人であるイエス、マリアの無原罪の御宿り、とか色々あります)の一種なのでしょう。というのも、「神が正しいものとして作った人間があえて間違えたのはなぜ?」「それは人間が高慢という罪を犯したからです」「神が正しいものとして作った人間が罪をもっていたのはなぜ?」「高慢は神の与えた自由の悪用に始まるものですから神は罪そのものを与えてはいません」「神が正しいものとして作った人間が自由を悪用したのはなぜ?」「悪魔にそそのかされたからです」「神が正しいものとして作った世界に悪魔が…」以下略という具合。なんにせよこのあたりは突っ込みどころではあります。

*3:ちなみにカトリック神学でいうところの(プロテスタントの場合どうなのかはよく知りません)肉体というのはまた微妙な扱いで、というのも肉体そのものは実は悪くないのだ、というニュアンスがなきにしもあらずなのです。そもそも神の息吹のかけらである魂は、肉体があってこそ人に宿るものであるし、また人間は肉体という弱さを抱えているがゆえに、それが犯す過ちは何度でも許され(ちなみに天使は魂だけなので一度でも裏切ると許して貰えないそうです。つまり堕天使はリカバリ不能。可哀想)、またそれを克服した際(つまり、極楽往生した場合)の偉大さは並み居る天使たちよりも上であり、より神に近い…など。とは言え現実的には肉体はしばしば悪の根源となる、という認識は間違いないようなのです。

*4:その反面、完全な記号としての存在を求められている場合も確かにあることは否定できません。「物語らせな物語たち」として以前少し書きましたが、「物語は欲しいが人の話は聞きたくない」、なぜなら「そもそもわざわざ聞くような質の物語に出会ったことがない」という一部の読者の現実が反映されているのでないか、と傲慢にも仮定するに留めましょう。

*5:見下ろすものとしての彼ら、あるいは標本としての世界。いかにも神的な視点だが、生憎我々は神ではない。むしろ我々おたくに最も欠けているものは、自らを見下ろす視点ではないか。…というようなことを臆面もなく語っています。