ファイナルファンタジーの最新作の評判を友人から聞く。主人公の声(をあてている人物)がとにかく酷く、彼の声だけをカットできるパッチを要求する声が出ていると言う。むしろ主人公自体がいらないという話もあって、惨憺たる有様。
ところで、いつの間にかスクウェアが”ファイナルファンタジー”を作れなくなった理由は、まさにこのあたりにあるのではないか。つまり、主人公の必要性――それは読者にとっての必要性に他ならないのだけれど――を失った作品とは、つまるところ読者の踏みいる余地がない作品なのである。
それは読者抜きで完結しているが故に、形式上いかにきちんとまとまっているかの様に見えたとしても、しかし読者に対しほとんどどんな反映も与えない。スクウェアが例のムービー制作で大失敗をおかしたことに見られるように、ムービーという形式(第三者視点を読者に与える)において露見し易い致命傷であり、そうしてできあがった作品は、少なくともエンターテイメントとして失格だ。
読者を必要としない物語は、最初から終わっている。読者の心はそれを素直に読みとり、素直に忘却するだろう。少なくとも読者という一点に対して風穴が開いていることこそ、物語がその完結によって終末を迎えないための条件であり、少なくとも私の求める物語構造のような気がする。