コメントへのレス(作品の設定がとにかくハリボテだという話)の延長。

つまるところもはや「学園」っていう設定自体がほとんどハリボテ状態なんですね。設定の意味が全くない。単なる地に足の着いていない正体不明の空間で、そもそも通っている人物たちの年齢すらわからない。妙に奇抜なプロフィールの意味もしばしば不明だし、そもそも読者に選択の下駄を預けているくせして無駄に主張の強い主人公が多すぎる。そのくせギャグに終始するならまだしもほぼ確実に終盤に主人公が真面目(少なくともそんな風に描写される)に悩み始める。ライターの人は自分がいったい何がしたいのかあるいはしているのか、少しは考えてみるべきでしょう。


"真面目に"考えるなら、もともと学園には「期限付きのモラトリアム」って明確過ぎるほど明確な存在意義があるわけで、そこに含まれる全ての事象(つまり学園で起こる出来事、キャストecc.)はその一点に対してアレンジされなければならない。これを素直にテーマに重ねて語れば例えば成長物語になり、それをひっくり返したのが終わらない夏休み。いくら終わらないって言ったっていつかは終わるので(最後まで終わらないものを発売するところもありますがあれはホントにもう何考えてるんだ、水月とか)、その手の学園ものというのは結局現実に戻ってくるわけです。言い換えるなら、


どんなに荒唐無稽な展開を見せようとも、最終的には少なくとも「まあそれくらいはあるかも知れない」程度の現実レベル(了解可能性)に落ち着く必要がある。そのためには「一体何がそのモラトリアム(現実逃避、というかしばしば学園で巻き起こる非現実なわけですが――なお非現実とは我々の現実とは激しさのレベルが違う、と言う意味です。宇宙人だの超能力者が出てくるのも、大富豪の娘が主人公にいきなり惚れるのもレベルの差があるだけで等しく非現実)の原因だったのか」がまず明らかにされないといけないし、その上でその原因が解決(時に排除)されなければならない。


つまり学園(まじめ)を持ち出すってことは実際のところ、物語を「論理立ててきちんと収束していく」高度な手腕が必要とされるわけです。何か「学園だったらとにかく無茶苦茶して良いんだ」みたいな誤解があるみたいですが全く逆ですよ、無茶苦茶にすればするほど終われなくなる。元々現実から乖離しているわけですから、地味に地味にやらないと普通の腕ではとても収拾がつかない。むしろそれだけで十分僥倖、例えば『GREEN 〜秋空のスクリーン〜』なんて見事に地味な作品で、映画を一本撮るだけの話なんですが、丁寧に作られてるから普通に面白い。そこらの人が真面目に学園ものを書こうとしたらああでもしないと。誰も彼もが『涼宮ハルヒの憂鬱』を書けるわけではない。


学園で無茶苦茶な設定がやりたいなら思い切ってギャグに徹してしまえばいいんです。ポップなのりで挫けず悩まず何でもばしばし機嫌よく解決していく主人公を用意しておけば、どんな嘘っぱちの設定でも嘘っぱちで解決していくんだから誰も気にしません。少なくとも気分爽快で楽しい。「アホらしい」と言われても実際真面目な話を書くのは難しいんだから仕方がない。アホには書けないのはもちろんのこと普通の人にも難しいんです。普通の人が解決できる程度の問題は通常わざわざ物語のテーマにするほどのものではないし、そうでない問題は普通の人には解決不能なんですから決着も付けられない。


学園というのはそれ自体当初現実から乖離した空間で、故にその後の話の展開は①現実に落着 ②乖離したまま の二択になります。前者は真面目な話、後者は(狙おうが狙うまいが)ギャグになり、当然のことながら後者の方が圧倒的に了解可能性の閾値が甘い。つまり後者の方が終わらせ易いわけですが、ギャグはセンスの問題ですから「落ちてるけど落ちてない」という問題はあり得ます。あり得ますが面倒見切れません。爽快感かなにかでカバーしてください。そしてそれでもまだ前者を選ぶという人がいるのであれば、自分がどれほど才能を、あるいは控え目なきめ細やかさを持っているかをしっかり考慮してくださいね、とでも言うほかありませんが、まず普通の人には無理でしょう。