ではいったい、「何が」おかしいのか ――そして「誰が」偽っているのか Natale
納得がいかない。どうして、アルを思い続けたら、こんな結末になってしまったのでしょうか。そう、そこには間違いなく、まだ何か、極めて重大な嘘が残っています。だから、この疑問は、「結局、クリスは誰が好きなのか」という疑問にこそ、置き換えて考えられるべきでしょう。そしてその疑問の答えは、da capoトルタパート12/25に存在します。
「僕は上を向いて、その丈夫で美しい天蓋を見上げてみた。
トルタの言うように、漏れるなんてことはありそうにない」
「雨を避けるために作られたその屋根は美しく、
機能のためだけそこに存在しているとは思えなかった」
天蓋。世界すべてを覆う、悲しいくらいに美しい、クリスの嘘。
「雨」とは、クリスのココロの雨ではなく、アルの、そしてトルタのココロの雨なのだ。
――DPC『雨の始まり』
雨は、クリスによってのみ見られた「偽り」でしたが、
それでも天蓋の下には降ってこなかった。
それは、嘘を嘘として成り立たせるための、最低限の「お約束」でした。
なのに、このシーンで、その「お約束」は破られる。
いや、「降ってくるはずがない」のです。もし降っていたとしても、振り込むはずがない。それまで、いくら雨が降り続けていたとしても、天蓋のなかで、雨が降るなどということは、「ありえない」。それは「絶対にあってはならないこと」なのです。そう、そこにはあえて、一つだけ、しかし、絶対的な嘘が一つ、ぽつりと一滴。 「落とされる」。
つまり、このシーンが持つ「嘘」は、「暴かれなければ意味がない嘘」なのです。あるいは、「暴かれないといけない嘘」なのです。それは、『シンフォニック=レイン』の根本であるが故に、どうしても暴かれないとならない。けれど、そのためには、「絶対にあり得ないこと」の力を借りるほかなかった。「絶対にあり得ないことが起こる」、それはすなわち、「奇跡」です。この日は降誕祭。ゲームの中で起こった、ただ一つの「奇跡」は、まさに、この聖なる日の、一滴の「雨」。
――何という皮肉。「奇跡」は「嘘」なのです。
雨を感じられたのはクリスだけ。フォーニを見ることができたのもクリスだけ。
たぶんフォーニは、クリスにだけ見えていた、アルの、そしてトルタの、本当の想い。
そのココロの涙が、「雨」だけが、唯一、物語を、いや読者を、finaleへと導く。
「トルタは僕にとって、なんなんだろう…と。
昼に、おじさんは恋人のようだと言った。
でも実際は、僕たちはただの幼なじみで、同じ学院に通う親友だった。
でも、それだけではない。そう割り切ってしまえるほど、浅い関係でもないような気がする。
それを言葉にしてしまうのは嫌だったから、
僕はただ、それを疑問に思い、答えに気づかない振りをした。」
彼にとってトルタは、親友以上です。でも、恋人ではない。ならそれは何?
もうおわかりでしょう。