なぜ、フォーニルートは
なぜ、フォーニルートは
「アルは実は死んでいなくて、だから最後、普通に生きかえった」
という話では駄目なのか。
■「光」の存在
フォーニエンドまでシンフォニック=レインを読み進めた読者なら、エンディングで夜空を飛ぶ「光」の正体、それは「誰かの魂」だ、と言うことに感づいていることでしょう。普通に考えると、フォーニエンド以外の全てのエンディングでアリエッタは死んでいるはず。ですからフォーニエンド以外のエンディングにおいて、あの「光」は「アル(=フォーニ)の魂」です。ここまでは良い。
しかし、おかしい。
フォーニエンドでは、アルは生きかえってしまった。そして、アルはフォーニだった。ならば、「光」、すなわち「アル(=フォーニ)の魂」は夜空を飛んではいけないはず。だって彼女は死んでいないのだから。にもかかわらず、フォーニエンドにおいてさえも、「光」は飛んでしまった。
疑問:
「あの飛んでいく光、あの魂は誰のものなのか」
「アルはフォーニで、フォーニがアルだった」以上、
あのエンドで飛んでいったのはアル(=フォーニ)の魂ではない。
すると、飛んでいけるのは、おそらくトルタの魂の他にない。
(理由は過去の説明参照――トルタは身を捨ててでもアルになろうとしていた)
とすると、
アルは、つまりフォーニというアリエッタの「魂」は、実は死んでいなかった。(まさに)
死んでいた、あるいは、もう駄目だったのは、アルの「体」だった。
だから彼女は、「自分の体」があれば、生きかえれた。
そしてトルタは自分の「体」をアルに捧げ、旅立つ。
アル(=フォーニ)はその体を得て、生きかえる。
もちろん、トルタの願いも叶い、アルの願いも叶った。
その意味でこれはハッピーエンドです。
しかし、間違いなく、そこには最悪レベルの偽りが残っている。
…いずれまた、雨が降り始めるでしょう。