シンフォニック=レイン ソナタ式考察

シンフォニック=レインという物語を構成する文章は、唯一『DPC 妖精の本』を除き、すべてモノローグである。すなわちSRは、すべて、「作中に登場する誰か」の主観によって語られる物語だ。ゆえに、彼らの発言や理解は、十分に疑われなければならない。なぜなら作者は神であり、「作者の視点」はけして間違わない。しかし、登場人物は、いくらでも間違い得る(むしろ、間違わせ得る――作者によって)。そしてSRとは、恐ろしいことに、全て「確実に間違い得る誰かの主観」において書かれた物語なのだ。






A:呈示1 第一主題 「クリス視点」 泣きたいほど狭い世界
トルタ、ファル、リセ
『嘘に次ぐ嘘の嵐。主観とは如何に不確かなものであるか』
クリス視点に限定された世界。どこからでも開始可能。しかし、三人ともクリアしなければ終わらない。クリスの視点にくくりつけられた読者にとって、謎と違和感は増えるばかり。そう、彼の視点=彼の主観的世界に留まる限り、SRという物語は絶対に読み解けない。


B:呈示2 第二主題 〜 <小結尾> 「トルタ視点」での、種明かし
『雨は、クリスしか見えない雨だった。すなわち雨は、偽りだった。』
『アルは、三年近く前の事故以来目を覚まさず、代わりにトルタがアルを演じていた』
つまり
『クリスはずっと、「トルタ」を(「アルだと思って」)愛していた』

「al fine」(終わりまで)の出現と同時に、以前の3パートは「da capo」(初めに戻ってやり直し)というグループとして括られる。我々読者はそれで初めて、それらが真の結末でなかったことを理解、あるいは確信する。 つまりそれ以前においては、それら3パートは「da capo」だとしての認識さえ、され得ないのだ。かように、クリス及びトルタ両者の視点=相互に客観的な世界を得ること(”他の誰かに対する新たな物語”が追加されること)で、SR世界に対する読者の視野は爆発的に拡大する。
しかし、これらは、あくまでクリス及びトルタの主観世界を比較することで得られた、擬似的な客観世界だということに注意。真実は作者のみぞ知る。ゆえに、そこにはまだ偽りが存在し得る。そして事実、以下のパートによって、明確に存在させられてしまう。



C:展開1 転調 da capoフォーニエンド 違和感の発生
「al fine」で物語は完結したかと思いきや、なぜか「da capo」内にフォーニエンドなる結末へと続くパートが発生する。その内容はこうだ。「事故で目を覚まさなかったアルは、なぜか目覚め、クリスと二人で幸せに生きる」。一見、とても――もはや白々しいほど――ハッピーな結末に思える。しかし、そこには何か、壮絶な違和感はないか? なぜ、このエンドだけアルは生きかえれた? どうして病室のアルは痩せていない? トルタはどこへ行ったのだ? 夜空に飛ぶ魂は誰のもの? 「オマケエンドだから」と目をつむる(と同時に、フォーニエンドの存在意義そのものを否定する)のも良いだろう。しかし、考えて欲しい。違和感は違和感だ。そして、思いだそう。私たちがSRという物語の各所で味わった違和感が、その実どれ程重要な示唆を与えていたかを。つまり  どうして、この結末は、<はじめから やりなおし> なのだろう。



D:展開2  嘘を語れ、真実のために ――クリスは誰が好きなのか
これまで私たちが当たり前として来たことのどこかに、致命的な勘違いはないか。繰り返すが、SRという物語は全て作中の誰かのモノローグ、それは主観による説明でしかない。そして主観は、『嘘・偽り・思いこみ』によって、たやすく真実をねじ曲げてしまうものだった(da capoを見よ)。何より私たち自身の意識こそ、主観である。

da capoトルタパート。12/25の天蓋のシーン。クリスはこう考える。
「トルタは、僕にとって親友だ。でも、それだけの関係ではない気がする。なら、何だろう…いや、思い当たりたくない。考えないことにしよう」
その直後、天蓋の内側にもかかわらず、雨が一滴落ちてくる。しかし天蓋の中に雨が降ってくるなどと言うことは、あり得ない。それは当然、偽りの雨である。しかし、ただの偽りではない。天蓋の中にさえ降る程の、物語の根底を揺るがす程の、強烈な偽り、あるいは真実がそこにある。それは何か。端的に言おう。


『クリスはトルタを愛している。――アルではなく 』


al fine序盤、一人称が一切省かれた記述。それはアルとトルタの取り違え、すなわち読者のミスリード(と、それによるちょっとした驚き)を誘うためのものと考えられている。しかしよく考えて欲しい。実際のところ、私たちは、「アル」を知らないのだ。私たちは一度も、「アル」を見たことがない。クリスに会っていたアルもトルタ。クリスと愛の手紙を書き合っていたのもトルタ(クリスはトルタを愛している)。私たちが、そしてクリスが知っている「アル」とは、「アルのことをとてもよく知っているトルタが演じた、アル」でしかない。だからもし、物語のどこかでトルタがアルになりきったとしても、私たちには――そしてクリスにも――それを看破することは、不可能なのだ。なお、恐ろしい事に、トルタは何度も、「それでももし、クリスがアルを愛し続け(ていると信じ続け)るのなら、私は真実、アルになろう」と呟いている。


シンフォニック=レインという物語の前提。それは『クリスはアルを愛している』というものだった。しかし真実、クリスが愛しているのは、トルタに他ならない。そしてその偽りは、「アルは実は意識不明」などと言った秘密よりも、圧倒的に重大な意味を持つ。なぜならクリスは、この真実に気づかない限り、 「”アルに化けたトルタ”をアルそのものとして愛しながら(そのアルしか知らないくせに)、自分は”本当のアル”を愛している(あるいは知っている)という勘違いをし続ける」 しかないからである。彼は、「本当のアル」なんてものを、絶対に知り得ない。だって「アル」なんて、もうどこにもいないのだ。

(クリスが知っている「アル」とは「彼自身が本物だと思っているアル」でしかなく、しかもそれは「トルタが演出したアル」だった。彼がアルだと思っているものは、トルタでしかなかった。彼の主観の正確さは、せいぜいその程度だった。彼は、例え間違っていても、自分がアルだと思っているものを、アルだと思いこんでしまう。そして事実、彼がアルだと思い、愛していた概念。それはそのもの、トルタなのだ。クリスは「本当のアル」を知っているつもりになっているだけで、実際は知らない。そして、もはや知りようもない。なのに、彼は――フォーニをアルだと思ってしまった)


da capo フォーニパートのクライマックス。クリスは、フォーニの書いた楽譜を、トルタがアルとして書いた手紙の引き出しに、入れた。彼はその時、気づいていない。自分が無意識に、フォーニとトルタの化けたアルを同一視していることに。その後、彼は、トルタとアルの違いに気づいたつもりになっている。しかし、彼はやはり、気づいていない。彼が真実アルとトルタの違いに気づいていたならば、彼は(偽アルからの手紙で満ちた)引き出しから、(本当のアルである)フォーニの楽譜を取り出さねばならないはずなのだ。彼が愛し続けていたアルとは、トルタだった。そして彼は、それなのに、これまで通り、アルを愛し続けると決めた。そう、彼は真実トルタを愛し続けながら、アル(フォーニ)を愛し続けていたつもりになっているだけなのだ。だから最後まで、アルかトルタ、表面上クリスがどちらを選ぼうとも、それは実際のところ、どちらもトルタなのだ。al fine、フォーニ、どちらの結末でも、クリスの愛しているものは、トルタに他ならない。


E:展開3 フォーニエンドの真実、 あるいはda capo最悪の嘘  
アルを愛し続けている(と思いこんでいる)クリスに対し、トルタはトルティニタという存在を自ら消し去り、(偽)アルとして彼の側にいること、それによって彼を支え続けること、あるいは彼の愛を独占し続けることを決心する。故郷へ戻り、偽アルとして病室のベッドに横たわるトルタ。(事故で肉体を失った)アルの魂であるフォーニは、そんなトルタの体を受け取り、偽アルとして甦った。しかし…代わりにトルティニタの魂は、誰に見送りもされず、静かに天に昇る。これはずっとクリスの側にいたいというトルタの願いも、同じくアルの願いも、共に叶えられたエンドではある。しかし・・・



<da capo>



F:再現 〜 結尾  <最後まで>あるいは<アルの死>あるいは<真の結末> 解釈
『da capoトルタルートが いつしかalfine 結末へと繋がる』
ずっと「私は誰?」と悩んでいたトルタ。しかし、アーシノやコーデルやニンナの助言により、トルタはついに「自分は誰でもない自分」であることに気づく。だからこそ彼女はクリスに「私はトルティニタ。そしてあなたを愛してる」と告げることができたのだ。クリスはずっと側にいてくれたトルタの愛を受け入れ、彼自らも、自らに偽り続けていた彼女への愛を確信する。最大で最後の偽りが解ける瞬間。それを見届け、アルの魂(フォーニ)は幸せに旅立つのだった。トルタとクリスの鎮魂歌は、いつまでも彼女の記憶を歌い続けるだろう。『I'm always close to you』は3人の愛の歌であり、同時に3人のfarewellの歌である。