語るキャラクター、語られるキャラクター


日刊海燕12日付け記事http://d.hatena.ne.jp/kaien/20061212/p1を読んで。
楽しみ方の違い、そう言った方が無難なのかもしれない。かかってかかって仕方がないさびき釣りで笑うのも楽しみであれば、人を殴ってせいせいするのも歓びだろう。
また一方で一向に釣れない魚を待ち続ける釣り人に歓びがあるように、詰め将棋の本を片手に微動だにしない人に充実があるように、その方法、状況、意味、そんな全てを知らなければさっぱり分からない楽しみ、歓びもまた存在する。


見えない都市 (河出文庫)

『見えない都市』、イタロ・カルビーノの傑作だと思う。フィクションの人物としてのフビライ・ハンとマルコ・ポーロ、このたった二つのキャラクターの間の対話の中に、次々と様々な『都市』の姿が現れる。

『都市』はそれぞれに小さな物語として浮かび上がる。けれどその『都市』たちもまた、それら各『都市』の間を埋めるフビライとマルコの対話、その物語構造という枠のなかで、もはや個別に語られるべき『都市』ではあり得ない。

全ての『都市』が語り終えられた時、読者の視線は『都市』ではなく、そんな『都市たち』を内包する世界へ向けられる。そして今やその語られていた都市たちが、フビライ・ハンとマルコ・ポーロについて(無言の内に)語り始める。


どこまで行っても、物語を物理的に構成しているのは全てシンボルに過ぎない。言葉一つ、名詞一つ、キャラクター一つとってしても同じこと。美しいシンボルに萌えるのは自然なことだ。

シンボルが複数の意味の簡潔な置き換え表現である以上、シンボル萌えはまたそのシンボルが含む、あるいは体現するところの小さな物語(意味)への萌えでも有り得る。否定されるべきものではない。ただし。

『見えない都市』がカルビーノ流の物語論であることは明白だ。そこで彼はこう語る。


人々はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによって自らとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。


例えばカトリックにおけるマリアというシンボルが、むしろキャラ萌えとして大きな力を振るっていることは否定できない。マリアという記号の持つ属性はそれ単体で魅力的だ。何よりも、分かりやすい。シンボルは力である。

けれどその教義上に浮かび上がるマリアの存在の意味という魅力には、より大きな歓びを見いだせるだろう。2000年に及ぶ研鑽が積み上げた(屁)理屈の大系の美しいほどに空しい緻密さには、賞賛のため息をつく他ない。


簡単に、しかも乱暴に言うなら、馬鹿にはシンボルの意味以上のことは理解できないのである。無学な民衆を教化するのに理論を説いても意味はない。ただしそれ自体として魅力的なシンボルは、単体でも有効。ただそれだけのことだ。

シンボルたちはそれぞれ誰にも理解しやすいバックグラウンドを持って現れる。属性と言ってもよいかもしれない。ところが、そんなシンボルたちが織り成す世界の上に照らしてみると、シンボルはそれぞれさらに新しい意味を見せ始める。

シンフォニック=レイン DVD通常版
例えば『シンフォニック=レイン』のキャストの一人であるファルシータという少女は、当初与えられる属性を後半の物語の中で大幅に裏切る。誰にとっても好ましい当初のそれに対し、後半のそれは単体としてけして魅力的な属性ではない。

ただし我々読者はそれを①ファルシータという少女を後者までも含めた立体存在として好ましく思う②そんなキャラクターとして物語に投入されたファルシータという存在自体の意味を好ましく思う、という具合に多重の枠組みの中で楽しむことができる。


楽しみ方の違い、そう言った方が無難なのかもしれない。かかってかかって仕方がないさびき釣りで笑うのも楽しみであれば、人を殴ってせいせいするのも歓びだろう。

また一方で一向に釣れない魚を待ち続ける釣り人に歓びがあるように、詰め将棋の本を片手に微動だにしない人に充実があるように、その方法、状況、意味を知らなければさっぱり分からない楽しみ、歓びもまた存在する。

正直に言うと、僕は後者の方を好む。けれど前者を否定することはすべきではないような気もする。ただし、それらはやはり、同じものを見ていても、まったく別の世界の話をしているのだということは、認識されるべきだ。

言い換えるなら「あんな内容のないキャラ萌えの」「てんで燃えないし絵は汚いし」は共に、時に否定されるべき修辞のようだ。自信はない。僕はしばしば前者を叫ぶ。ただし、それを喜ぶ人は確かにいる。そして、人の歓びにケチをつけるのは悪趣味だろう。