シンフォニックレイン

id:genesisさんへのレス http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050822/p1#c

「沈んでいってる」気持ち、よくわかります。考えれば考えるほど、心の雨が強くなるんですよね。私はそれを引きずったまま冬のボローニャに行ったために、すっかり心に焼き付いてしまいました。さて、ごく個人的な意見として、私はそれらの作品とSRの根本的な差異として、「超越的な視点を認めるか否か」という点を述べたい。少なくとも「EVER17」はそれを完全に認め、SRは殆ど全てに置いてそれを認めていません。


つまり、SRの本当に恐ろしさは、まさにこの点にあると私は認識しているのです。超越的な視点(=世界の可能性のすべてを同時に網羅的に正確に完全に把握しきる、その世界から超越した真実の視点=全知全能)を持たない限り、「読者」としての私たちは「その世界の外部的観察者」であるつもりでいながら、その実「各作中人物の性格に詳しく、いろんな結末の可能性を知っているだけの、単なる作中人物の一人(=世界のしがない無力な一住人)」でしかないという事実を、srは心行くまで残酷に突きつけてくれるのです。


なぜならSRという作品は、殆どその全て(『妖精の本』内の一部の記述を除けば)が、誰がしかの主観的論述(これ以上不確かなものがあるでしょうか? 実際に、私たちは既にそれをつくづく思い知っています)でした。そう、私たち読者は本当のところ、最後まで真実客観的な意見など獲得していない(各登場人物の心情を比較検討することにより、「比較的客観的な」視点は得ることができたけれど、それは結局のところ、「それぞれの登場人物たちの視た/視たかった情報の和」という制限にとらわれたまま)。ゆえに、最後まで私たちにとってsrという世界は曖昧で、そこに真実だと断定できるものなどは、一切存在しません。つまり、SRの読者に本当の意味で超越的な視点(=真実)は、絶対に発生し得ないのです。


さて、ここで翻って私たちの世界を見た場合、それは結局のところ、完全に私の主観的認識に基づく私の主観的世界(sr以上に主観的)です。そして、主観的世界の曖昧さと、主観的世界にとらわれた人々の無力さと悲しみを、ただ一つ真実の欠けた世界の嘆きを、私たちは今や十分以上に知っている。私たちは幸福にあるつもりで、そのとき誰かが味わっている不幸を知らないし、自分が誰かに味合わせている苦しみの可能性に気づかない。ましてや、自分自身が次の瞬間不幸になりうる可能性など! 認めましょう。私はしがない世界の一住人。知っているつもりで、何も知らない。この前提自体が永遠にループする程度の認知力しかもたない私としては、「私以外の超越的な誰か」の存在を認め、それの正しさが導く結末を信じるしかないのでした。いやはや、「たかがゲーム」のおかげでこんなことになるなんて・・・。